『宮崎駿』NHKプロフェッショナルの仕事術

ちょっと遅くなりましたが見ました。
いやーよかったです。宮崎駿関係の本はかなり読んでますが、
創作方法とか、どういう一日を送ってるとか具体的に分かって楽しかったです。
奥さまも実際の映像で見たことはなかったので初めて拝見しました。


印象に残ったことは、
脳に釣り糸を垂らす
疲れると右脳の後ろが痛くなる
孤独な時に声をかける必要はない

とかあたり。

次回作の、
人面金魚ポニョ(タイトルは、丘の上のポニョだっけ?)
の制作が主な話ですが、


宮崎さんの場合、まず大量のストーリーイメージボードを描いてから
「まず絵ありき」で話を作り始めることで有名ですが(ハウルなんて作りながら話を考えたそうですが)
一般にはシナリオをしっかり決めとかないと破綻するでしょうね。
そういう意味で、宮崎さんだからできる手法と思います。
絵を描き始めたらやり直しきかないですし。
仕様書決めずに、プロトタイピングでやってると言えるかも(w


見てたら、絵を描きながら大量に捨ててた。捨てずに私に頂戴!(w
それにしてもヘビースモーカー。でも、自分の体調を引き替えにしても、タバコとかのアルカロイド毒は
創作活動にはいるのかも。作家って、原稿用紙に向かいながらタバコ吸ってるイメージあるし(もちろん例外はありますよ)
誰もいないアトリエに来て、「おはようございます」って言ってたのが面白いですね。
「いえ、いるんですよ」ってアニミズム的ですね(アニメーションの語源ぐらいだし)

一般的には「素直に作ってる」って一応ほめてるような報道がされてると思いましたが、
けっこう宮崎駿がどう思ってるか分かりました。
言ってたのは、


1)「思いだけで作ってはいけない」
2)「大人になってない」
3)「初めてにはしてはよくできた、っていうのは演出家にとっては最大の侮辱」
4)「(映画は)世の中を変えると思って作らないといけない。……変わらないんだけど」


1)は、吾郎版ゲド戦記(実際はシュナの旅なんだけど)は、父殺しの話
 要するに、宮崎駿の否定、というか、呪縛をテーマにしてるわけですよ。
 見かけがジブリっぽいとか、そんなことはどうでもよくて。
 悪く言えば、自己満足、自己救済のための映画。
 観客を楽しませる気持ちが無いわけです。
 まったくユーモアがないでしょう? 宮崎駿の映画は、歩いてるだけでもユーモラスですよ(たとえば男はガニマタだったりする)

 
2)も1)の関連だと思いますね。けっきょく「子供」は親というものを解決して大人になるわけですよね。
 これは物理的な大人、子供じゃなくて、論理的な大人、子供の話です。
 たとえば反抗期も親との関係性を解決するためのプロセス。


3)、4)は深いですね。
ゲド戦記の試写会が終わって、会場でかなりお偉方のようなスーツを着た方が気さくに宮崎駿に語りかけてました。
おそらく「吾郎ちゃんすごい作品作ったねえ!」とか言ってたと思う。
ゲド戦記は映像はジブリが作ってるから凄いから、一見凄いんですよ。微分して切り出せば凄い。
ブランドがあるから、観客も入る。
それまで原画マンでもなかった吾郎さんがあの大作をきちんと完成させて公開できて、
それは凄いと思います。
でも、むしろ初作品は破綻してて良かったんですよね。
熟練すれば向上するような技術的なところは破綻してていい、それは時間がたてば直る。
問題は、うまくまとめることじゃくて、そこに「何か挑戦があったか?」
「そもそも何を描きたいのか?」


最後に宮崎駿がプロフェッショナルって言葉に対して言ってました
「半分は素人がいいんですよ。自分がやりたいからやるって気持ちがないと」
ゲド戦記は完全に作りきって破綻がない分、それはプロフェッショナルと言えるかもしれませんね。

  • ロリ

あと印象に残ったのが
家の近所にご近所つきあいがあるみたいで、
小さな女の子が「すてきなおひげね」と宮崎監督に語りかけていた(さすが金持ちの子供なんだろう。言葉使いが違う(w
宮崎監督は自分のひげをさわらせていた(・∀・)ニヤニヤ
ハウルをつくってくれてありがとう」
幼女は言っていた。「どういたしまして」と監督ぺこり


監督のアトリエの玄関先にはベンチがあって、休憩できるらしいです。看板で「どなたでもどうぞ」って描いてあるみたい。
おそらく、小金井か三鷹でしょ? 家から近いので一度探して行ってみたいですねえ。


それからそれから。

  • このままではアニメに未来はないという認識


宮崎さんは英国旅行に行かれたそうです。そこで、美術館に入った。
ラファエロとかの、いわゆる光と影を強調した絵画。
自分は詳しくないのでおかしなことを描いてるかもしれないけど、
レンブラントのような、宗教絵画の系譜と思います。
遠近法を駆使したリアリズムを推し進めた絵画の最終形。
宮崎さんが驚いたという絵画は、一人の女性が池に仰向けに浮かんでました。
油絵で近くによればタッチは荒いけど、遠目にみると写真のようなリアリティがある。
それを見て、宮崎さんは確信したそうです。


「俺たちはへたくそなまねをしていただけだ」
今のままでは後がない。


これはアニメの未来についてです。
CGを導入して、千尋ハウルと、表現は格段に向上してます。手書きに頼っていた頃より楽になってます。
最近のアニメは、瞳がグラデーションになってたり、髪が透けてたり、手書きでは不可能な表現を使ってる。雪や光の表現もCGならではのリアリティを生み出してると思う。



でも、リアリティを追求する方向は、既にヨーロッパ絵画の歴史が推進して行き場を失ってると思うのです。
それはひたすら実写に近づくだけで、道は閉ざされていると(この認識は任天堂もしていて、彼らはwiiで高解像度路線を捨てた)


ゴッホのような印象派の画家もおそらくそういう認識をもったと思います。
彼は、日本の浮世絵を見て、遠近法によらない表現方法に衝撃を受けたと思う。
遠近法でリアリティを追求することが、絵画の絵画として表現の向上ではないと思ったと思うんです。
本来、日本のアニメはそういうものと思います。
ディズニーのような、どのような動きも均一な枚数で表現するアニメではなく、
重要なところだけを作画して、離散的に動くアニメ。
一枚の絵も、絵画的にデフォルメされているが、動画としての時系列にも、デフォルメがほどこされている
(これは海洋堂が冷蔵庫のフィギュアを作るときに本物と同じではなく、部分をデフォルメして大きくしていることに通じる)
現実を現実そのものにより表現することはモダン。
イノセントの映画の感想で、リアリティを追求するのはダメだと自分は描きましたが、まさにそう思います。それは遠近法の推進にすぎない。それはアートではなくて科学。

  • アニメ表現への再チャレンジ


次回作では、単純な絵で、単純に見えない表現方法を試みると宮崎監督は言ってました。
それはコンピュータ支援を駆使したリアリティ(現実の模倣)に、先がないと悟った
監督の最後の挑戦と思います。
もう握力は昔の半分だそうです。鉛筆は5Bを使ってました。
昔の映像と比べると、すごくやせられてるなと思いました。
陰影表現を減らして、単純な図柄で、輪郭線も太く描いてました。

  • 海を舞台にした話

海を舞台にした話では、未来少年コナンを思い出します。
水没した都市というイメージはまさに未来少年コナンです(カリオストロもそうです)
ある意味、監督の原点かも。
見えない世界というのは、千と千尋もそうだと思います。
ナウシカ腐海も、まさに海のアナロジーです。荘園は見えない世界でした。
真実は見えないところにあるという気持ちがあると思います。


「一言でこういうテーマなんて言える作品はうさんくさい」
「(テーマより)子供につまらないって言われない話を作りたい」
「名声?そんなものどこにあるんでしょう? 過去の作品は関係ありません。これから何を作るか?だけですよ」