不可視なものの世界 東浩紀 朝日新聞社


ISBN:4022575360
 2000年発行。村上隆山形浩生などとの対談集。
 挿絵が富沢ひとしで、極太明朝のエヴァ風の装丁が「4年前」を感じさせる(^^;)


 全体を読んで一番伝わってくるのは、記号で言うところの「イメージ」と「シンボル」という問題。
 イノセンスとからめて言うと、動物は「イメージ」は理解できるが、「シンボル」は解らない。人間は両方が解る。故にシンボルが解るから「人間」は人間と言える。
 解りやすく言うと、マンガにおけるスピード線や集中線。これは「字ではない」以上、「絵」なので本来は「イメージ」なんだけど、
 そこに「意味」がある以上、それは「シンボル」として処理される。
 動物は生きていくうえで、敵を認識したり、エサを探したりするが、すべてイメージとして外界をとらえ、イメージとして処理するだけで暮らしている。
 しかし、これを動物が劣っているとだけ考えてはダメで、
 シンボルを理解するが故に、人間は「シンボル」を介さないとコミュニケーションができなくなってしまっている。
 これはナニを意味するかというと、相手の言葉を聴いたときに、それを自分のことと置き換えて、他人の意図を推測しながらしか「交流」ができない。
 だから意思の疎通が起こる。一方動物は、「完全なコミュニケート」ができる。(なので動物の方が、純粋に幸福であるという言い方もできる)


 ここでさらにイノセンスの問題に踏み込むと、「自己言及力」こそが「人間」であることを規定すると言えるとすると(=現存在)、
 動物は「自己言及力が貧しい」とハイデガーは言っているらしい(←曖昧だな(^^;)


 シンボルとイメージに戻ると、忠犬ハチ公は主人を待ち続けたので賢いと言えるが逆に言うと「死が理解できてない」。死を理解するにはシンボル処理の能力が要る。
 ネアンデルタール人は埋葬の習慣があったらしいので、人間とハードウェアは違うにしても、シンボルを処理できる能力があったと言える(これをPC-98で強引にWindowsを動かしていたと比喩していた)


 アニメに踏み込むと、アニメに萌えるという行為は、アニメという「イメージ」を脳内でシンボルに変換して、それをさらにイメージを喚起することで心を動かす処理が走っている。
 しかし、実写のグラビアを眺めるときは、イメージを直接イメージで処理する。米国のグラビア誌のような大また広げた写真は非常に直結されたシンプルなイメージ処理ですまされている。


 以前、aritifactでマニアとオタクの違いを取り上げたときがあったけど、村上隆との対談で同じことに触れていた。
 マニアは「評論する」だけだけど、オタクは「評論をして」さらに「模倣もする」
 たとえば、同人誌やSSといった形で、評価対象を評価するだけではなくて、自ら作ってしまう。
 たとえば、切手マニアは「切手を自ら作り出す」ことはしない(そりゃそうだ)