セカイ系とオウムと連合赤軍

休みなんで、朝まで生テレビを寝ながら見てたんですが、
今回のテーマはオウムと連合赤軍でした。

アンテナ巡回もしたんで、そのへんとあわせて考えてみます。
http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20040323#p1


まず非常に解りやすかったのが、
オウムが至ったポアとはなぜか? 連合赤軍のリンチはなぜ起こったのか。
このことに対する解答なんですが、
たんにオウム=カルト集団=テロみたいに「否定する」ことは簡単だと思うのです。
しかし、それは構造問題であり、世界の鏡なのであって、オウムを批判してフタをしてしまって、「なんの解決にもならない」
それが前提で考えると、


なぜ「大量虐殺を平気でできるのか」を考えるために遡ると、
「宗教によって、現世の存在の不安が解消されることで、死への不安を解消できる」
そのことが「自分自身の死」に恐れを持たないで済むようにしてくれる。
自分の死を乗り越えた人間は、同時に他人の死も「平気」になる。
だから「虐殺も平気でできてしまう」
これは非常に解りやすかったです。
戦場の兵士も同じ心理だと思います。イスラムのジハード、キリスト教の十字軍も。
「他人を平気で虐殺できるのは、他人に残虐になっているというよりは、自分の死を「乗り越えている」結果、その死を他人に対しても広げられる。
そこに宗教の危険がまずある(これはもちろんオウムだけではなく、すべての宗教に言える)


>昔の若者は、反体制に親近感を感じていたが、最近の若者は、政治に興味を失ってきている。オタクも、その部分集合である、と考えたほうが百倍筋が通る。


 そういうことだと思います。
 大学紛争では、反体制という「スローガン」があった。
 オウムでは麻原がいた。
 オウムがバーチャルリアリティなら、大学紛争もまたバーチャルだし、
 それならば、サラリーマンが帰属する「会社」もまたバーチャルだと思います。
 興味を失っているというより、「真実」と思われていた「国家」や「世界」といった「真理」が「実はそんなものはただの思い込みだった」という意識が進んだ結果、
 「すべてが相対主義に落ち込む」
 そして「凪」のように波のない海になってしまった。
 番組で、田原さんが「蛍の光」から三番が無くなったことを指摘してた。
 文部省が、戦後、「国家の為」という「意識」を徹底的に破壊していった。
 では、戦後、日本はなにを求心力に進んで行ったのかといえば、
 それは「利益追求」だけだった。
 「お金」が「国家」の位置に来ていた。


 香山リカさんが指摘してたけど、バブル好景気を背景に「甘さ」もあって、80年代にサブカル系の学者が
岩波新書もJJも同じなんだよ」という権威を引きずり降ろすというよりは、あらゆる求心力を解体して、
 面白ければ、それはみんな同じなんだという「絶対力」を否定する方向で、現代思想も含めて知識人がみな動いた。
 それは好況だったから「できた」けど、
 気がついてみたら、世界から「あらゆる真理が失われて」「個人はばらばらになり」「相対主義がすべての現象を等価に置き換えてしまった」
 それは思想的には仕方が無いことと思うけど、
 大学紛争とかのようなパワーが世の中から消えてしまうことに「力を貸した」
 香山リカさんも自分自身その責任を感じていると言いながら、当時、相対主義へ世の中を動かした人間は、現在、みな責任をとらずに「逃げてしまった」と語っていた。
 「世の中に絶対なんて無い」と「声高に言いまわった」結果、
 本当に「絶対が無い」社会になってしまった。


 そんな時代に、オウムはもう一つの国家を個人に与えてくれた。
 オウムが誤解されているのは、信者というのは個人的な存在で、互いのつながりを求めていない。ただ修行をすることでステージがあがっていく。
 そこに番組を見ていた感じたのは、


 オウムは「セカイ系」なのではないかということだった。
 個人だけの問題で、身体変容で麻原と自分自身を重ね合わせる。
 それは、自分自身と身の回りが直接世界全体へ繋がってしまう価値観であるセカイ系と同じなのではないかと。
 たとえば最終兵器彼女、たとえばハルヒの憂鬱。
 別にセカイ系なんて言葉はどうでもいいんですが、
 番組で、連合赤軍もまた個人的な問題だったと元兵士の方が語っていた。
 大学紛争も、目的は「世界改革」と掲げながらも、
 結局は、反体制、あくまで負の力として、社会を批判してひっくり返したいという気持ちで、自己を肯定する、
 きわめて個人的な「自己実現の手段」だったのではないかと思うのです。
 

 ここで香山リカさんの反省に戻ると、
「世界に絶対が無いと叫び続けた結果、本当に絶対が無い世界が来てしまったけど」
 「叫ぶだけなら、大学紛争レベルと変わらない」
 ただ「壊すだけ」にすぎない。
 壊れた結果「相対主義」だけの世界になり。
 その結果、ベクトルはすべて相対化されて、水面に波が出てこない。
 その結果、「大衆には意見が無い」ように見えてしまう、
 けれども、それは相対主義で打ち消されているだけであって、
 確実に個々人の人々はそこに生活して、存在している。
 では、相対主義の世界で、なにが今、世の中に欠けていて、どうすればもとっと良くなるのか。
 そもそも世の中は、今、悪いのか?
 たしかに不況かもしれないが、宮崎さんの言葉を借りれば、
「このすべてが充足した世界で、最後の残るのは「死ねば終わってしまう」という矛盾だけなんです」
 たしかにそうなんです。
 どんなに高給取りでも、会社で偉くなっても、どうせ人間はいつかは死んでしまうんです。
 「革命しても、どうせ死ぬじゃん」
 番組で大学紛争のときの方が言っていた。
 よく会社なんかで自分のことを言うと、「自分のことしか考えてない」みたいな批判をする場合がありますが、
 なにもかも満たされた世の中で、最後に残るのは「自分しか無い」のですよ。
 「会社のため」とかいう話は、「戦前の国家の為」というスローガンが、会社というバーチャルリアリティの世界に置き換わったにすぎない。
 「なにかの為に」というスローガンを受け入れた瞬間に、目標ができて、理想ができるので、
 人間は不安を忘れるわけですが、根本的に、それでは何も解決されてはいないし、
 不安に対して覆面をしている間にも確実に人生という時間は過ぎていく。


 じゃ、今のまま、「利益追求」だけを目標にしていいのか。
 なにか新しい求心力を持ったほうがいいのか。いや持つことができるのか。
 イラク派遣を巡って、「派遣しないほうがいい」というのは簡単にできる。
 アメリカを批判することも簡単にできるし、政府はアメリカに追従しているだけと批判することも口先なら簡単にできる。
 戦争はよくない。平和がいい。というのは口先だけなら簡単に言えるけど、裏ではしっかり経済活動をして利益を出して「充足した世界を気付きあげて、生活している」
 その矛盾を矛盾とすら考えていない。戦争に行きたいない、死にたくない、殺すのはよくない。そんなものは当たり前の話なんだよなあ。