現代アートとは何か 菅原教夫 丸善ライブラリ

ISBN:4621051180

  うちの親は高校生のときは美術部だったらしいのですが、いわゆるピカソのような抽象的な絵をまったく好きではないようで、理解できないというところもあるのだろうけど、幾何学的なパズル的な絵画を絵画として楽しめないらしいのですが、
 しかし、ルノアールゴッホのような絵を描いていても意味が無い。すでにもう描かれている以上、わざわざ描かないでももうあるのだから。
 そういう意味でも、人の描いてない極端な方向へ走ることになる。絵というかイメージとしての極端な終端のような場所を捜し求めて行くしかなかった。
 浮世絵の影響というのも、遠近法をつかった西洋洋画へのカウンターだったのだろうなと。あえて陰影を無くしてみたり、複数の視点を一枚の絵に持ち込んだり、
 極端から極端へ走っていく。
 そして絵画は難しいものへ変化していった。


 モダニズム純化、還元を進めた結果、もう新しい枠組みは無くなってしまった。
 そこから出てきたのは、引用や皮肉や批判などを従来の作品になして何かをとりだそうとするアートだった。
 しかし、それは間接的であるがゆえに、積極的に何かを作ろうというものではないので、非常に鑑賞者にとって受け取りにくい美術となる。
 それはさらに壊すだけ創造の態度が無いと批判される。(これは朝生での香山リカさんの反省とも重なるのでしょうけど)


 これは小説の状況とも重なると思いますが、文学が行き詰っていくなか、何を書くのかということが問題視されていく。
 小説は人間を描くことが目的のように言われてきたが、「ミステリ」のように人間ではなく、トリックや枠組みそのものを描くことを目的とする方面、
 もしくはライトノベルような、他ジャンルも含めた作品からの引用と記号の複合によって作られるまったく新しい小説も生まれてくる。

 不可視な世界にもありましたが、アニメは人間を区別するため、もしくは感情移入を促進するためにガジェットが大量に付加される。
 実写なら人間がひとり立っているだけでもリアリティがあるけれど、アニメでは絵がもたないので、頭にアホ毛があったり、髪が赤かったり、へんな衣装を来てたり、
 話自体がへんな話だったり、ガジェット満載になる。
 しかし、そのガジェット満載が結果的に、おたく文化となり、
 その表面性が、むしろ内面を描かずに、状況を語るというポストモダンへと結びついている。
 その中で、宮崎駿に関することが出来てきたのですが、わたしは「なるほどな」と思ったのですが、
 考えてみるとジブリ映画は、「人間を描いている」とは「まったく言えない」。むしろ人間ひとりひとりは非常に薄っぺらで類型的でしかない。
 いわゆる文学的な人間性の掘り起こしなんかはしていない(そのへんは高畑さんと宮崎さんの対立)
 宮崎駿の映画に関しては、その全体の世界観、枠組み、状況を描くことで成立している。
 (むしろ人間を描いていないので、海外ではなかなか評価されないことに繋がっている)