なぜ「見透かされない萌え」の時代へ変化しているのか?

http://d.hatena.ne.jp/izumino/20040120#p1


>要は、「従来の萌えで定義しきれないものを『これは新しい萌えだ』と言うことに限界がある」ってことかな……。*1
> 逆に、無理矢理ではなく(私的な萌え定義の中で)自然に萌えたんならそれでいいと思いますし、もし「マリみてで初めて萌えを知った」っていう男性が居ればそれがその人の萌えなんだろう……とか。


 「萌え」のメカニズム自体は「何も変わらない」と思うのです。「別に新しい萌え」とは言えないと思います。
 発熱地帯が書いているように
http://amanoudume.s41.xrea.com/cgi-bin/mt/archives/000057.html
「見透かされた萌え作品には萎えて、見透かしてない天然な純真な作品に萌えた」
 マリみて自身は、今までに無い新しい作品ではあるかもしれませんが、むしろ新しいのは、
 「ラブひな」のような計算された萌え作品が「萎える対象」になって、「計算のない」作品の方が、「より萌える」という「発見」があった
 ということが「新しい」のだと思います。


 別に「萌え」とかの「言葉はどうでもいいのです」「愛する」でもいいのです。
 それは「たんにラベル付け」ですから、「従来の愛とか好きとか燃える」では「しっくりこない」から、
 「新しい言葉が生まれただけ」であって


 考えるべきは、「なぜ計算された萌え」が「萎える」ように「変化している」のか?
 それは、「萌えてください」って作品は、「読者の主体性を踏みにじる」「作者の手のひらで踊らされる」「自分の気持ちを見透かされている気がして、むかつく」
 そういう意識はあると思うんです。
 これが「手紙」ならいいと思います。「自分の気持ちを考えてくれている」
 それはむしろ感動するし、それは肉親とかの愛とかですよね。親友との友情とか。


 しかし、不特定多数に書かれた作品が「自分の欲望を計算されて作られていて、それに自分がまんまとはまる」
 それはいい気持ちはしないですよね。(気持ちがいいところもあるかもしれませんが)


 そのへんの心理の動きをたんねんに考えると、
 たとえばパロディーの場合は
 「作者のパロって皮肉ってる気持ち」と「読者は自分も読むときに皮肉ってる気持ちを共有して味わえる」
 それは、作者と読者が共同して「ネタもとを笑ってやる」という快感がある(皮肉を、愛に変えてもOKです)
 しかし、「計算された萌え作品」を提供された場合は、


 初期は、「メイド」「めがね」猫耳」みたいなキーワードを「使っている」ことに「作者と読者が共同して「記号」を笑ってやる快感が成立したと思いますが、
 萌えが始まって、時間が経過しているので、
 その共同して味わえる快感が減少して、むしろ作者から上位的に自分に流れ込んでくる萌え情報の提供という構図の方が、高くなってくる。
 それでは、はっきりいって「自分自身の自尊心は縮小する」
 だから、「計算されて無いもの」に対して、萌えれば、自尊心は減らない。
 そういう心理メカニズムが働いていると自分はおもいます。
 そういう意味では、萌え文化の成熟の過程であると。(反抗期とそっくりですね)