共感しているものは何か?

http://d.hatena.ne.jp/okgwa/20040119

>私は、というと、マリみてに萌えているのではなくて「共感」しています。


「萌える」ってのは「対象を自己完結的に消費するコト」みたいに言うことはできると思います。
この自己完結が「動物化」と言えると思います。
わたしは「共感」している(自己完結して無い)といいたくなる気持ちは誰でももってると思いますが、
もっと根本を考えて見ますと、


「萌え」とか「消費」とか以前の時代に
岸田秀という心理学者が「不惑の雑考」って本で
「小物語の時代」というエッセーを書かれてます。
(初出、日経ビジネス昭和58年)
http://home.aol.com/shimakaz/kishidaindex.htm
ISBN:4167540029


「人間は物語をつくる病気にかかった生き物である」
(これは岸田さんの考え方のまず基本前提です)
大物語とは西洋でいうキリスト教のことであり、「神は死んだ」という言葉とともに大物語は無くなり、そして近代化が始まった。
しかし、物語を作らないといけない欲望は存在するので、小さな物語を作り続けることになる。
しかし、大物語が無い以上、人々の小物語は、共通する「大物語」に含まれることはない。
よって、次々に「小物語」を生産し、それを消費していかなければならない。


昭和58年の数ページの文章ですが、物語消費論や動物化するポストモダンの意味する内容は既にすべて出ていると私は思いました。


日本で考えると、戦争中は「鬼畜米英」の大物語があったので、国民は一致団結していました。
戦後は逆に、反戦、平和、平等、自由が「大物語」だったと思います。成長もありました。
しかし、「成長が止まりました」「未来は無くなりました」


それが、現在の不況(のように見えるだけ)であり、レトロブームであり、リバイバル文化でもあると思います。
その世相を映す鏡として、「作品」もやはり目的や未来を失うのは仕方が無いと思います。


>私は、というと、マリみてに萌えているのではなくて「共感」しています。


 その共感しているものは何かと考えてみますと、
 たとえばマリみての同人誌があったとして「どう思いますか?」
 マリみてのアニメは「どう思いますか?」(内容ではなく存在を)
 マリみてと似たような設定で、別の人がぱくった作品を見て「どう思いますか?」


 本当は、マリみての原作者が作り出したもの以外は、すべてが「二次創作」ですよね。
 それをすべて否定するならまだいいかもしれません。
 しかし、それを受容する、のならば、
 「それは、マリみてそのもの、ではなくて、マリみての表現する「何か」に「心を動かされている」ことになる。
 二次創作でもOKなら、二次創作は「偽者」でしかない。
 偽者を否定せずに「受容する」ならそれは「本物と唯一結びつく感情」とはいえませんよね。


 では、なにと「唯一、結びついているのか?」というと、それは「己の気持ち」になると思います。
 「己の気持ち」とだけは「唯一結びついている」わけです。
(だから、対象が、本物でも、アニメでも、同人誌でも、他人のパクリでもいい)


 「それが、動物化という現象であり、それが萌えの正体である」


(たとえ、わたしは「本物だけ」としてみたところで、それは活字という表現で伝わってくるに過ぎませんがが、それが言葉によるコミュニケーションの限界なわけで)


>例えばミスチルの曲とか聴いていても、やはり共感できる部分があって、心打たれる。


 それはミスチルが普遍なのではなく、ミスチルの歌が、詩に共感したと思う「自分の気持ち」が「普遍」なのだと思うのです。(普遍という言葉をとりあえず使ってみる)
 だから、将来、新しく好きな歌手が出てきて、ファンになる「ことができる」
 「ミスチルだから」なのではなく、「まず自分の感受性」があることが先なのですよね?


 そして、それが「物語を消費する」ということになっていくと思います。