朝まで生テレビ「こどもの問題」

 今回は、教育や少年犯罪などが中心で、身近であり、かつて通ってきた道でもあり、興味深く見た。
 電気通信大学の教授も日頃は暴論に近いと思うことはあるが、
「小学校・中学校」は「詰め込みをしないといけない」「暗記をさせなければならない」って意見は賛成だ。
 以前、小・中学の教育改革の対談を見たけど、「独創はつめこみ教育をしないと生まれない」という発言があり、自分も同意見だった。
 ゆとりの教育が即悪いとは言わないが、「個性も独創性」も「枠にはめる、反復訓練のつめこみの暗記をして」初めて「生まれてくる」ものである。
 「つめこみはいけない」「暗記は学問で無い」「個性を重視」などというのは、「基礎教育を終了した学生に対してはじめて言えること」で、
 小・中学校は、「訓練」のときである。
 これが奇麗事で「個性重視、学問は能動的なもの」などと「アホなこと」を教師やアホ団体が言い出すので、子供の学力が低下しているのだろう。


 番組でも議論があったが、「学力テストの結果を張り出さない」(に代表される悪平等主義)から「万能感が失われず」に「自分は神様と思った幼児のまま大人になる子供」が犯罪をおかす。
 学芸会で「主役と端役に別れるのは差別」とか「運動会で競争を止めよう」とかいってるアホな親が「世の中を狂わせている」
 こういう「自分では進歩的と思ってるアホ親が少年犯罪を起す元凶」だと思う。


 下世話な例だと、
 勉強のできる生徒は偏差値で自信を付けてヤンキーを見下し、ヤンキーは偏差値で見下されて、そのかわりケンカで、優等生をこらしめて自信をつける。
 これは「自己を見出す循環」になっており、互いに「自身のメリットとデメリットを発見することで、万能感の挫折も知る」
 これが昔のいいサイクルだった。


 しかし、偏差値が無くなり、ヤンキーもいないので、
 他人を見下すことで自信もつけられず、挫折もせず、循環されない「衝動」が暴発して犯罪や、いじめに発展する。
 「これは悪い」と無くしていくことが、「さらに悪い事態を引き起こしている」
 教育基本法は「自由と平等」はうたっているが、「行き過ぎた自由に対する批判が無い」と議論していた。
 悪平等、行き過ぎた自由がすべての元凶である。たしかにそうだ。
(行き過ぎた自由=スーパーフリーってイヤミな冗談が飛び出した(w


 今まで世の中は「豊かさを目標に動いていた」
 しかし飢えは無く。「豊かさは達成された」
 もう目標が無い。目標を失った親や大人たちは「子供に目標を示せない」
 世の中は「損と得」で動いている。いい学校にいくのはいい会社に入るため。
 なのに犯罪が起きれば「善と悪」という論議がまかり通る。
 「殺人がいけない」のは簡単なことだ「殺されると損だから」だ。
 「殺人が悪なら、牛を殺すことも悪である」
 (牛も鶏もレタスもちぎって食べているのに、猫を殺すと、ヒステリーになる人たちがかなり多い)
 「善悪では何も語れない」「善悪という解釈は人間様のご都合主義」にすぎない。