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地方と東京と日本の関係はなんとなくフラクタル

http://www.otsune.com/diary/2004/01/20.html#2004012013

 はじめに断っとくと、わたしは地方生まれ、地方在住なんで、渋谷とか池袋で遊んでみたいな話はイメージでしか判りません(^^;)
(一応、川崎に数年住んでいた経験はあり)


 しかし、「東京の情報は大量に地方に流れる」ので「地方も東京のことはそこそこ知っている」
 しかし、「東京生まれは、地方のことはあまり知らない」
 という不可逆な関係があると思います(ま、判りきったことですが)


>いい大人が地元ローカルなパソコン通信でウダヴタやっている間に、大学からfjに詭弁や荒らし議論をポストしているぐらい差がついている


 わたしもパソ通からいきなりfjを知ったときに「愕然」とした経験があるので、なんとなく判る世代です(w


 しかし。パソ通レベルでも、「普通じゃ出会うことも会話することもできないレベルの相手」と対話ができたわけで、
 これは、自分の人生にとって「すごい素晴らしいことだ」と思うんです。
 fjで、さらに「そのレベルの高さに驚くぐらい感動したけど」 (←リアルだけで生きていたら、東大とか京大とかのマニアの会話を眺めるなんて機会はもてないですから)


 ネットで「普通なら出会うことも出来ない人と意見を交換することができる」って考えてみたら「素晴らしいこと」ですよね。
 ネットのおかげで、顔は見たことがないけれど、地方に住んでいる自分もこうして日記で意見を交換できる。
 そのことには感謝してます。


>「東京に住んでいるサラリーマンの子供よりも、地方だけど恵まれている自分のほうがイイんだ」と、中二病になっていたりします。
>また上手いことにこのあたりの時期で、大学受験で上京するというシャッフルタイムが用意されているんですよね。
>んでそういう恵まれている地方の子供は、受験テクニックも上手だったりします

 このへんを読んで、「海が聞こえる」を思い出しました。
 ジブリのアニメで、氷室冴子さんが小説書いてるんでそっちも読んだんけど(徳間文庫)
 舞台は高知で、東京から転校して来た女生徒の家庭に巻き込まれる主人公の話(大学で上京する)


 あれで氷室さんは、地方から東京は、不完全情報だから憧れる。男性から見た女性も、不完全情報だから憧れる(マドンナな世界)
 情報化で、完全に情報に近づくにつれて、その憧れは失われていくみたいなことを書いていたと思う。


 あと地方と東京で考えると、
 日本は地方分権でも、東京を中心にした階層でもなく、「すべての地域が小さな日本になっている」という意識をもっている。
 「地方に○○富士」があることは、地方は小日本であり、同時に全体も日本である。
 「くに」と呼ぶときに、それは「国」も指すし、「故郷」の意味もある。このへんの感覚は微妙なんですよね。
 小さな日本が互いに重なって、日本を作り上げている。


>政令指定都市は、プチ都会とプチ郊外へとフラクタル理論よろしく投射されている感じで。


 そうなんですね。日本社会はフラクタルなんですね。このへんは欧米とは違う。(都市同士が分権したり分散してるわけじゃなくて、重なってる)
 

 地方の○○富士や、地方の○○銀座もフラクタル理論で説明できますね。


 しかし、不利な点もある。「おらが町に新幹線を引く」って意見はフラクタルの悪い例ですね。
 日本人は「みんなで平等になろうよ」っていうより「他人が持ってるのに、自分がもてないのは我慢できない」って意識の方が強いと思う。


>とりあえずADSLが引ける地域にさえすんでいれば、ネットとしてはフラット
 ネットとしてはフラットなんだけど、
 アニメ放送枠が偏ってますよね(;´Д`) 地方じゃアニメ日記はやりづらいです。
 東京で録画して、地元で見るってスタイルが将来は可能になって欲しい(w
 録画代行業とか(w 倉庫を借りる感覚(著作権的に難しいか?)
 東京のTV電波をネットで配信して、それをTVチューナーで受信してみたら、著作権違反? (電気通信法違反?)
 でもね。TVのケーブルを引くのは免許いらないので、東京から福岡へ有線で引いたとしたら、問題ないよね(思考実験として)
 ま、屋外でケーブルひくのは免許いるかもしれないけど。
 仮に、東京から福岡まで続く長い家に住んでいて(どんな家だよ)
 その家でケーブルをのばして、東京のテレビを福岡で見るのは、問題あるまい(笑



 でも、東京のマンパワーってのは凄いと思います。
 地方じゃアニメをわざわざ流してもDVDがさほど売れないだろうし。スポンサーもメリットが無いですもんね……。

壁や萌の話

http://d.hatena.ne.jp/inuzou/20040122

>養老氏の著作は、「壁」の存在に気づいていない人々にそれを気づかせたのならば、大切な役割を果たしたと思います
 それはわたしもそう思います。


>その「パターン」に開き直ったり、「壁」をなぞるだけの工夫の無い陳腐なものが「狙った作品」や「媚びた」作品、又は其処に迄も届かないもの、と謂えないでしょうか


 その通りと思います。
 作り手は開き直っても仕方ないと思います。うまく結合させる技が大切で。
 誰か書いてましたけど、「若いときは結合させる力がある」
 歳をとると「結合させる力が減る」
 結合させるは「まとめる」とも言い換えられると思います。
 「まとめる」力が減るから、新しいパターンを導入できない。それで「自己模倣」に陥って、ワンパターンになってしまうのかもしれません。


 養老さんがバカの壁で「一般人はどんなに死ぬほど努力してもイチローにはなれない。それはイチローが天才的な肉体を持っているからだ」
 みたいなことを書いてと思います。
 そう一般人は「天才にはなれない」(努力してもなれないものにはなれない)


 だから、大塚英志氏は「キャラ小説の書き方」一般人がすこしでもイチローに近づくためには「パターン」を利用しようと言っているんだと思います。
 「別にパターンがすべてとか、パターンで書くべき」とは言って無いと思います。
 天才じゃない以上、パターンを利用すれば「多少でも上手く書ける」ぐらいのニュアンスと思います。
 野球で言えば、「理論」とか「筋肉」とかをつけろって意味になると思います。後付で「補強」できるところは「パターン」でもやるべきで。
(大塚氏自身も自分は天才では無いが、パターンを利用することで、プロのマンガ原作者として作品をたくさん出せたみたいなことを書いていたと思います)


(ちなみに、イチローはくねくねした体質らしいですが、江戸時代の恐ろしい剣豪は体がくねくねした人たちだったらしいです。坂本竜馬とかも。イチローが昔だったら凄い剣豪になっていたと、以前、NHKラジオ深夜便で学者が話してるのを聴きました。日本刀の戦いは恐ろしくて、刀を受けてもそのまま相手は刀をすべらせて切ってくるので、受けられないで切られるそうで。くねくねした体質の人の剣技は恐ろしいらしい)


 あと、「萌え」という瞬間は「その部分だけを取り出して」みたいな所はあると思いませんか?
 「眼鏡の女性がニコ」って絵を見て「萌え」という瞬間は、むしろそれまでの文脈や経緯を考えないで「その瞬間だけを評価」しているように、
 自分は思えるのです。


 そういう意味で、作り手ではなく、受け手にとって「萌え」とは、作品の文脈とは関係無しに、「瞬間に成立する」要素はあると思うんです(自分の意識を分析してみて思う)
 そういう意味があるから、「萌え」は「記号」であり「パターン」であり、再利用できるという意味が出てくる。
 作り手の立場で言えば「パターン」を結合させただけででは「ダメだ」というのは「もっとも」と私も思います。


 しかし、受けての側は「瞬間だけ」で「感動することがある」
 それは悪いことではなく、そういう感情もあっていいと思います。(それはパターンだけを奨励しているわけでなく、そういう瞬間や表層だけに感動する意識もあるぐらいの意味で←表層はうすぺっらいという意味でなく、背後の情報へのリンク)
 いわゆる「萌え絵」ってのは「一枚の瞬間」だけで「感動させる」
 それはやはり情報が圧縮されているわけで、「それはどこにあるか」といえば「それは観賞する人間の側にある」(そして、それを作ったものにもある)


>私としては「萌え」はあくまでも調味料として使う分には善いのですが
 料理でいうなら、「萌え」は調味料ではなくて、
 「味覚の一種」と思います。
 調味料というと、作り手にとって材料みたいに見えますけど、
 「萌え」は「受けて」の側の問題と思うからです。
 作り手が「萌え」を意識するときは、自分を受け手の側において考えている気がします。
 

萌えについて

http://homepage3.nifty.com/utata/200401.html#19

>「男性が無理やり萌えようとして、発見してきた」という見方をすることが
>「無理やりなので無理がある。もたない。いずれ限界が来る。 」のではないかと。

 皮肉ですね(笑

 「無理やり萌えさせられるのを拒否して、あざとくないものを探して萌えた」
 って感じでやや軌道修正したいと思います。
 (上記の文はもともと私が言い出したわけじゃないし(苦笑
 ま、あとの文も初めの文もさほど変わらないと思います。

「見透かされたことに気付くと萎える」というのは、むしろ非常に一般人的

http://d.hatena.ne.jp/izumino/20040122#p1

 そうだと思います。別に普通で。


>今までオタクが見透かされることに寛容だったというだけで
 ここは自分はちょっと違うと思います。
 「見透かされてる」みたいには思ってなかったんじゃないか?
 むしろ、「同じ価値観を共有する」「同じ趣味を共有する同士」
 みたいな意識ではないでしょうか?
 「萌え」ってけっこう伝染しますよね。だれかが「萌えー」って叫ぶと「俺も萌えー」みたいな伝染。
 萌えを媒介にした「感受性」の相互確認。
しーぽん萌え〜の裏返しの光太死ね〜の伝染、祭)


脱線
(考えてみると、しーぽんが何が新しかったかって、あまり狙ってる感じがしない。あざとくない。むしろ内気でやや暗くて、でも健気で、
普通に悩んで、なんかどこにでもいそうで、「でも天才」
それは、やはり見透かされて無い感じがしたのではないか。
 普通の作劇なら、タカヤノリコや大運動会のように、ややオチこぼれの根性を主人公にすると思う。従来路線。
 しかし、それは「一般人である卑小な我々に」「感情移入させて、それを持ち上げることで、喜ばせる」という「計算」が鼻をつく。
 いや、昔は「純粋にそれは応援だった」と思う。
 しかし、それが計算に見えるまでにパターン化が進み、モデル化が進んだ。
 そこに「初めから天才のしーぽんが現れる」
 ま、私は、天才が主人公といえば星里もちるのわずかいっちょまえを思い出すのですが)
脱線戻る


 ただ、それが「萌えビジネス」みたいな形にまで進んでしまうと、
もはや「受けて」はだだの消費者の一人にまで矮小化されてしまう。
 なにせビジネスモデルの末端で「稼いだ金を吐き出させさせられる被搾取者」になったようなもので。


 そういうモデルの進化があって、「同士じゃない」「俺は操られている」みたいに思い出す意識が発生したのではないでしょうか?
 べつに「見透かせれて萎える」ことが「新しい」のではなくて、「そういう意識が芽生えた」ことが「新しい」と思っているのです。


>本来は「好き」と言えば良かった感情が、全て「萌え」で説明できるようになってから「どのように好きなのか」を考えなくていいようになってしまった。
>そこには消費の効率化と思考停止があるだけで、何も発展性が無いような気がします。

 すごい同感です。わたしは萌えなんて言葉は極力使いたくないです。
 はっきりいって、font=+3とかで「○○萌え〜」とか書いてる日記は、
 バカやろうって思ってます。


>少なくとも「萌え」という言葉の使用を否定することによって、何らかの発展性はあるでしょう。*2
 そうですね。なんか「これは違う」って違和感を持つだけでも全然違うと思います。


>「私が○○に萌えるかどうかを決める。でもそれはあなた達が考えるような萌え方ではない」という、当たり前のことを言える(受け入れられる)かどうかが問題なのではないでしょうか。*3

>そこらへんは、フェチ板の書き込みを参考にすればもっと視野は広がると思う

 フェチと萌え記号の関係はいまいちしっくり判らないです。
 どちらも部品として取り出して、その背景や文脈は無視できる側面もあると思うんですが、
 フェティシズムと萌えって似ているようで何かが違うような。
 なにが違うのかな……