壁や萌の話

http://d.hatena.ne.jp/inuzou/20040122

>養老氏の著作は、「壁」の存在に気づいていない人々にそれを気づかせたのならば、大切な役割を果たしたと思います
 それはわたしもそう思います。


>その「パターン」に開き直ったり、「壁」をなぞるだけの工夫の無い陳腐なものが「狙った作品」や「媚びた」作品、又は其処に迄も届かないもの、と謂えないでしょうか


 その通りと思います。
 作り手は開き直っても仕方ないと思います。うまく結合させる技が大切で。
 誰か書いてましたけど、「若いときは結合させる力がある」
 歳をとると「結合させる力が減る」
 結合させるは「まとめる」とも言い換えられると思います。
 「まとめる」力が減るから、新しいパターンを導入できない。それで「自己模倣」に陥って、ワンパターンになってしまうのかもしれません。


 養老さんがバカの壁で「一般人はどんなに死ぬほど努力してもイチローにはなれない。それはイチローが天才的な肉体を持っているからだ」
 みたいなことを書いてと思います。
 そう一般人は「天才にはなれない」(努力してもなれないものにはなれない)


 だから、大塚英志氏は「キャラ小説の書き方」一般人がすこしでもイチローに近づくためには「パターン」を利用しようと言っているんだと思います。
 「別にパターンがすべてとか、パターンで書くべき」とは言って無いと思います。
 天才じゃない以上、パターンを利用すれば「多少でも上手く書ける」ぐらいのニュアンスと思います。
 野球で言えば、「理論」とか「筋肉」とかをつけろって意味になると思います。後付で「補強」できるところは「パターン」でもやるべきで。
(大塚氏自身も自分は天才では無いが、パターンを利用することで、プロのマンガ原作者として作品をたくさん出せたみたいなことを書いていたと思います)


(ちなみに、イチローはくねくねした体質らしいですが、江戸時代の恐ろしい剣豪は体がくねくねした人たちだったらしいです。坂本竜馬とかも。イチローが昔だったら凄い剣豪になっていたと、以前、NHKラジオ深夜便で学者が話してるのを聴きました。日本刀の戦いは恐ろしくて、刀を受けてもそのまま相手は刀をすべらせて切ってくるので、受けられないで切られるそうで。くねくねした体質の人の剣技は恐ろしいらしい)


 あと、「萌え」という瞬間は「その部分だけを取り出して」みたいな所はあると思いませんか?
 「眼鏡の女性がニコ」って絵を見て「萌え」という瞬間は、むしろそれまでの文脈や経緯を考えないで「その瞬間だけを評価」しているように、
 自分は思えるのです。


 そういう意味で、作り手ではなく、受け手にとって「萌え」とは、作品の文脈とは関係無しに、「瞬間に成立する」要素はあると思うんです(自分の意識を分析してみて思う)
 そういう意味があるから、「萌え」は「記号」であり「パターン」であり、再利用できるという意味が出てくる。
 作り手の立場で言えば「パターン」を結合させただけででは「ダメだ」というのは「もっとも」と私も思います。


 しかし、受けての側は「瞬間だけ」で「感動することがある」
 それは悪いことではなく、そういう感情もあっていいと思います。(それはパターンだけを奨励しているわけでなく、そういう瞬間や表層だけに感動する意識もあるぐらいの意味で←表層はうすぺっらいという意味でなく、背後の情報へのリンク)
 いわゆる「萌え絵」ってのは「一枚の瞬間」だけで「感動させる」
 それはやはり情報が圧縮されているわけで、「それはどこにあるか」といえば「それは観賞する人間の側にある」(そして、それを作ったものにもある)


>私としては「萌え」はあくまでも調味料として使う分には善いのですが
 料理でいうなら、「萌え」は調味料ではなくて、
 「味覚の一種」と思います。
 調味料というと、作り手にとって材料みたいに見えますけど、
 「萌え」は「受けて」の側の問題と思うからです。
 作り手が「萌え」を意識するときは、自分を受け手の側において考えている気がします。