「見透かされたことに気付くと萎える」というのは、むしろ非常に一般人的
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20040122#p1
そうだと思います。別に普通で。
>今までオタクが見透かされることに寛容だったというだけで
ここは自分はちょっと違うと思います。
「見透かされてる」みたいには思ってなかったんじゃないか?
むしろ、「同じ価値観を共有する」「同じ趣味を共有する同士」
みたいな意識ではないでしょうか?
「萌え」ってけっこう伝染しますよね。だれかが「萌えー」って叫ぶと「俺も萌えー」みたいな伝染。
萌えを媒介にした「感受性」の相互確認。
(しーぽん萌え〜の裏返しの光太死ね〜の伝染、祭)
脱線
(考えてみると、しーぽんが何が新しかったかって、あまり狙ってる感じがしない。あざとくない。むしろ内気でやや暗くて、でも健気で、
普通に悩んで、なんかどこにでもいそうで、「でも天才」
それは、やはり見透かされて無い感じがしたのではないか。
普通の作劇なら、タカヤノリコや大運動会のように、ややオチこぼれの根性を主人公にすると思う。従来路線。
しかし、それは「一般人である卑小な我々に」「感情移入させて、それを持ち上げることで、喜ばせる」という「計算」が鼻をつく。
いや、昔は「純粋にそれは応援だった」と思う。
しかし、それが計算に見えるまでにパターン化が進み、モデル化が進んだ。
そこに「初めから天才のしーぽんが現れる」
ま、私は、天才が主人公といえば星里もちるのわずかいっちょまえを思い出すのですが)
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ただ、それが「萌えビジネス」みたいな形にまで進んでしまうと、
もはや「受けて」はだだの消費者の一人にまで矮小化されてしまう。
なにせビジネスモデルの末端で「稼いだ金を吐き出させさせられる被搾取者」になったようなもので。
そういうモデルの進化があって、「同士じゃない」「俺は操られている」みたいに思い出す意識が発生したのではないでしょうか?
べつに「見透かせれて萎える」ことが「新しい」のではなくて、「そういう意識が芽生えた」ことが「新しい」と思っているのです。
>本来は「好き」と言えば良かった感情が、全て「萌え」で説明できるようになってから「どのように好きなのか」を考えなくていいようになってしまった。
>そこには消費の効率化と思考停止があるだけで、何も発展性が無いような気がします。
すごい同感です。わたしは萌えなんて言葉は極力使いたくないです。
はっきりいって、font=+3とかで「○○萌え〜」とか書いてる日記は、
バカやろうって思ってます。
>少なくとも「萌え」という言葉の使用を否定することによって、何らかの発展性はあるでしょう。*2
そうですね。なんか「これは違う」って違和感を持つだけでも全然違うと思います。
>「私が○○に萌えるかどうかを決める。でもそれはあなた達が考えるような萌え方ではない」という、当たり前のことを言える(受け入れられる)かどうかが問題なのではないでしょうか。*3
>そこらへんは、フェチ板の書き込みを参考にすればもっと視野は広がると思う
フェチと萌え記号の関係はいまいちしっくり判らないです。
どちらも部品として取り出して、その背景や文脈は無視できる側面もあると思うんですが、
フェティシズムと萌えって似ているようで何かが違うような。
なにが違うのかな……