FacebookとGoogleの目指すものは正反対

日経BPの「フェイスブック 若き天才の野望」を読み終わった。
読み終わって思ったけど、現在公開中の映画はかなりおかしい。
どうも、これはザッカーバーグを訴えている人を取材して書かれた話が元らしい。
見ないと言っていたザッカーバーグも映画は見たらしいけど、
彼はホワイトハウスという米国ドラマが好きだったらしいけど、
ソーシャルネットワークの脚本を書いてるらしいので、ホワイトハウスのドラマのことをfacebookの自分のページから
削除したらしい。
napstarの創業者にしても、映画中で小切手を投げ捨てた相手とは、今でも付き合っていると
映画はおかしいと動画で語っている記事も見ました。


ま、映画の話は置いておいて、
興味深いのは、ザッカーバーグの考えとGoogleの考えが正反対ということです。


平たくいえば、Googleの信条は「邪悪になるな」です。
これは梅田さんが新書に書いていたように、コンピュータアルゴリズムによる「公平なスコアリング」が、
公平な光を人びとに当てるという意味です。
それまでの検索サービスは「お金を払った会社がランキングの上位に来る」というB2Bビジネスの典型的な
不公正な仕組みだった。
それは、利用者の真の得にはつながらない。
あくまで、エンドユーザーの利益は何か?という視点にたって、公平に格付けする信条こそがGoogleの核心だと思います。


ただ、それは言い換えれば、人工知能によるインターネットの支配でしょう。
コンピュータ将棋をやっている人間はGoogle的な考え方に近い人は多いと思いますが、


一方、Facebookは、アルゴリズムではなく、友人のリコメンドによって商品を推薦したり、
ソーシャルグラフそのものを信条にしている。
それは人間中心主義



ただ、この両者はどちらも必要と思う。人間中心主義は既得権益を許す社会を生み出すし、
アルゴリズムによる公平性にばかり気を取られると、人間性の意味を希薄にさせるでしょう。
真の未来のインターネットはこの両者の間にあると思われます。
(Facebookは検索事業に本格的に取り組み始めている)


ただ、真理とは別に、現状の枠組みとして、
facebookはログインするという塀に囲まれており、GoogleBOTは侵入できず、
検索サービスを提供できず、その結果としてGoogleAdsenseを貼ることができない。
Facebookという空間はGoogleにとって闇そのものであり、
その青い闇はまさに広がっている。


一方でFacebookは自社のソーシャルグラフの中に、バイラル的な広告を張り巡らせ、
プラットフォーム戦略により、外部の会社にアプリを開発してビジネスさせる自由も提供している。
Googleが貸し出すのは広告主の広告だけだが、Facebookはユーザーの人間関係そのものを貸出ししてくれる。
Googleの広告は単に利益の問題なのに対して、Facebookのそれは、ユーザーの間に喜びを拡張することにつながっている。


ユーザー数5億人に達したFacebookは世界を統一する世界政府の役割を帯びてきている。
一方、Googleが世界に提供するものは何だろう?
BingよりGoogle検索の方が結果が良い、というだけの理由で人々はGoogleを使っているが、
実はGoogle検索が無くなったとしても、他の検索エンジンを使えばそれほど変わらないかもしれない。
ただ、WEBでの自己表現としての活動に、Google検索エンジンが当ててくれる光は強力な援軍と思えます。
実は価値のある活動であっても、孤立していればソーシャルグラフは光を当てることはできないでしょう。
ザッカーバーグ自身(そして創業メンバーの皆が)がSNSのヘビーユーザーではないという指摘が本書ではされています。
SNSの世界で充実した日常を送れる人たちはSNSを自ら作る必要性を持たなかったでしょう。
↑小説家が小説を書くのは、直接周囲の人間に自説を訴える手段を取れないからでしょう