『パトレイバー2』と三島由紀夫

http://night-news.moe-nifty.com/blog/2004/06/post_17.html

 僕はどうも『パトレイバー2』の柘植行人は、三島由紀夫の最後と重なるような気がしてならない。クーデターの実行を塞がれた三島は、
クーデターらしき状況を演出することによって、メッセージを伝えたかったのではないだろうか。
そして、絶望しかない三島は演出の最後を自らの死でしめくくったが、柘植はそうしなかった。柘植は、この街(国)の未来をまだ見ていたいと言う。

 『パトレイバー2』のラストシーンは、希望なのか、それともあきらめだったのだろうか。
そして、三島由紀夫は今の日本と自衛隊を見て何を思うだろうか。

三島が憂いた状況になったというのはその通りと思うのだけど、
自衛隊がクーデターを起こしたところで、日本が変わるとも思えない
そんなこと三島がわからなかったはずがないと思うのだけど
なぜ「お毎ら蜂起しろ」といって三島は自決してしまったのか、いまだに意味が判らない
生きてれば、大文豪としてノーベル文学賞も間違いなくもらってるだろうし


押井守三島由紀夫をモデルにパト2を考えているのかは知りたいけれど、
押井守は三島みたいに現実に動いたり、ましてや市谷で叫んで死んだりしない(はず)
どこまでもメタだから。


行動学入門
http://y-kyorochann.at.webry.info/200711/article_4.html

草原を疾走する鹿の肢体は美しい、しかし自分では美を感じ取ることは出来ない。
美はいつも主体と客体の関係で見るものと見られるものによって成り立つ。
行動の客体は自分で美を認識できないというわけです。形として残るものでなく、記憶の残像として存在する。

行動は美しい。「若者は行動しろ」というのは、「行動している若者を見て俺が美を感じたい」の裏返しでは?
行動しない自衛隊は醜いから行動して美しくなれと。


美自体は自分で美だと判らないのであれば、芸術家が自分自身を美にしてしまっていいの?
美はあくまで外部から見出すものであれば、芸術家がボクシングしたり楯の会を作っても、
その美は誰が見出すのでしょう?


男子の間に百合アニメが流行るのは(女子にはボーイズラブが)
「この娘かわいい」と思う感情の持ち主が男だと、その男は美を感じる存在であって美ではない。
百合であれば、美を感じる人も美であるという、USBのような「美の数珠つなぎ」が確立されている。
芸術が美を表現するものであれば、百合アニメには無駄が無い(同様にボーイズラブにも)


三島がボーイズラブが好きなのはいいとしても、自分がボーイズラブを実践してもいかがなものか