大きな物語の次の物語
サイレントメビウスは大きな物語を引きずっていた
それは魔導師の血の継承だし、東京を守るというテーマがあった。麻宮氏はサイメビのテーマは母性と書いていた(そんなの嘘だあ)
なんだかんだと言って、モダンだと思う
男性は、香津美のフィアンセであるロイ。そして香津美の父ギゲルフ。その他、キディにも恋人はいたが、皆、非業の死をとげている
ギャラクシーエンジェルは、大きな物語を茶化した。エンジェル隊は軍隊でロストテクノロジーを発掘するといった
重要な任務を担当しているが、徹頭徹尾おちゃらけた集団である
しかし、そのでたらめさは、大きな物語を茶化すことパロディすることにある(ファルス?)
そういう意味では、大きな物語の呪縛から逃れていない。モダンを笑う者としてポストモダンだと思う
男性はウォルコット中佐ぐらい。ここで性別を超えた存在としてのロボットが出てくる(ミサイル)
あずまんが大王は、そもそも大きな物語は謎だった。それはチヨ父に代表される訳の分からない世界だった。
重要なのはヨミの体重であったり、サカキさんが道ばたで出会う猫とのコミュニケーションであったり、
ウンチクをのべるちよちゃんの日常にあった。
チヨ父的な謎は、大きな物語を不明にさせたけど、それはやはりアンチテーゼじゃないか?
おちゃらけてはいないが、明確な物語のテーマを否定の裏返しだと思う。
男性は、高校の先生ぐらいなもの。
ひだまりスケッチになると、そこには小さいながらも目標なりテーマがあった。それは宿題を提出することであったり、
彼女たちは絵を描くけど、絵を見に行くシーンはほとんど見なかったような気がする。
彼女たちは美術館に行かない。美術書を開いてウンチクを述べているシーンも見なかった。
ウンチクをノベル行為は、大きな物語へつながってしまう。
それは外側の偉大な世界への架け橋になってしまう。
なんというか、大きな物語と小さな物語の区別が無くなったと言ってもいいのかもしれない。
もう、そこには大きな物語への対抗も反発もない。ポストモダンを越えたと思う
男性は校長ぐらいなもの。
けいおん!もまた、彼女たちは歌を聴かない。歌を聴けば、誰のファンか?という差異が生まれる。そこにあるのは対立。
そしてもっと広い世界とのつながり。成長を目的とする拡大はモダンではないだろうか。
音楽を聴いて歴史を学ぶことは成長戦略である。
モラトリアムに外界を批判する行為がポストモダンだと考えると、そこに陥らない為には、
外界と遮断される必要があるのかもしれない。
彼女たちは消費しない。コンテンツを消費しない。そこにあるのは創造のみ。
徹頭徹尾消費する側に回ったオタクたち徹頭徹尾音楽を聴かずに創造する彼女たちの間には性別と次元の違いに加えた深い溝が
あるが、溝がなかったら、見る意味はない。いかにして溝を広げるかにこそ意味があるのじゃないだろうか
男性は基本的にいない模様