吉祥寺の本屋でAI関係の特集の現代思想のバックナンバーを買う

井の頭通りに面していて、一見、ブックオフ系の古書店に見えるんですが、
中を見ると、「記号と言語」とか「宗教」とか「言語学」とか、人文系のその手の専門古書店だった。
理工書は全くないけど(一部情報系の言語の本)
少ないけど、サンリオ文庫まで置いてる(*´Д`)ディックのサンリオ文庫本もあったよ(高いけど)


そこに、現代思想のバックナンバーで人工知能を扱ったモノが数冊あったんで買ってみた。
いずれも80年代で、バックプロパゲーションで有名な甘利さんが論文を書いてたり、ミンスキーの論文の和訳が載ってたりした。
まだ古典AIを引きずってる時代と思うけど、座談会とか面白かった(かなり難しいが)
西垣さんの記事なども載っていた。


1986 現代思想「特集=情報としての世界 人工知能心の哲学
1987 現代思想「特集=機械じかけの心 人工知能現象学
1989 現代思想「特集=知識のエンジニアリング エキスパートシステムは知能を持つか」


その中でチェスを例に論じている話があって、
チョムスキー生成文法などの考え方にそると、


チェスというゲームは、ルールに則った手を指す。すなわち=シンタックスな構造。
そこでは、シンタックスな構造から、創造は生まれない。
自然言語は、シンタックスな構造ではなくて、意味に根ざしたセマンティックな構造みたいな解釈がされていた。
要するに、チェスは計算機パワーの上に成り立っており、そこにはシンタックスしかない(評価関数も探索も含めてシンタックス扱い)



しかし、そうだろうか?
本当に文法だけで指せば、それはゲームにならないでしょう。
評価関数という評価を持ち込んで(それは最後の詰めの近似であれ)
評価を高めるように文法に則って手を指すというとき、
その評価を高めるということは、「意味論」に足を踏み入れてないだろうか?
たんにルール上正しい手を指している、ということを超えて、より自分に有利になるように指すということは、
そこには「相手に勝つ」という目的を持った「意味」を生んでいるじゃないかと自分は思う。


人間だって、行動は、「美味しいモノを食べたい」とか「楽しくなりたい」とか「気持ちよくなりたい」とか、
本能という評価関数のスコアが向上するように、行動していると思う。
それが会話なら、「相手をへこましたい」とか「偉いと思われたい」とか、「お世辞を言って、相手を気持ちよくして、利益を引き出したい」とか、
やはり会話でもある目的をもって、評価を向上させるような言葉を話すはずと思う。


古典的AIで有名な積み木の世界と思考ゲームの違いは、
積み木には「目的がない」。自然言語で積み木の移動を正しく認識して表現できる。ただし箱庭の限られた世界。
問題は限られていることじゃなくて、そこには目的がない。目的がないところに意味は生まれないと思う。
意味は情報であるという書き方がされていた。そこには観測者がいる。
観測者は人間である必要は無いと思う。目的とその目的に近づくという努力があるとき、そこに意味が生まれるんじゃないかと思う。