コメントだと長くなるのでこっちで

> 増田淳 『失礼、ちょっと印象だけで言い切り過ぎました。長い眼でみれば、「興味のあること」をたくさんもっている人間こそが豊かな物をかけると、私も思います。』

 うーん。それほど単純な話ではないと思うのです。
 興味のあることを積み上げて、みたいな話は「大きな物語」のような路線で、
 けっきょく、パロディだろうと二番煎じだろうと、「テクニカルに上手い」人が凄い世の中じゃないですか?


> 増田淳 『それから、「いまのライトノベルを読んで、新しい発見があるか? 自分が変わるか?」ってことですが、「どんな本であっても出版されている以上かならず面白い部分があるはずだ」という観点で読めば、発見もあります。
>子供の頃SFをはじめて読んだ時と同じ興奮を味わえる、世界が変わって見えるライトノベルはいくつもあります。要は読み方の違いです。

それは当然です。そういうことじゃなくて、
なんというか、面白い部分っていうのは、どういうチョイスをしたか? とか、どういう部分からひっぱってきて結合させたか? とかの話じゃないですか?
「面白さ」を発見するために読むのなら、それでいいと思います。「面白さを発見するために書かれてるのですから、それは当然です。面白さを発見できなければ意味がありません」
その面白さの種類と受け取り方の問題。
いや、そんなことを言っても、解決策は無いんです。文句を言っても打開策がないのが、この問題の問題点で、気にならないなら別にいいのです。気になる人は気にすればいいだけで。

>ただ、私はいまのライトノベルが大好きなので、小宮さんのもっている問題意識や閉塞感をそもそも理解できてない可能性もあります。』
 閉塞感を共有する世界がラノベの良さだと思うので、それが楽しいのはそれでいいのです。


 もうちょっと具体的に書いて見ますか

「また君か。」の頁作さんが、かわぐちかいじさんの例で、
http://d.hatena.ne.jp/matakimika/?of=10


>なんとしても感じ入らざるをえないのは、劇画という表現についてだ。本作は、なにかいろいろ大事なことを言ってそうでいて実はなにも言ってない。結果として辻褄は合っている気がするがそう感じられるとしても偶然に過ぎないと思う。
>見得とハッタリが劇画のルールだ。それがまるで実体を伴った表現であるかのように感じられるとすれば、それこそ作者の技量や力量にほかならない。ここから汲み取れるものは「劇画表現」それ自体以外にはなにもない。

 と書かれていて、なるほどなと。
 別に原潜で独立国で平和国家でうんぬんを作家が考えているわけではない。
 それはそうだろう。
 いや、それ以上に、話の展開とか、そのときの感情とか、それも関係ない。
 ようするに、「面白く」て「話が読み物」として「成立する」ための「道具」として「物語」があると。
 ぶっちゃければ、結末が逆だろうと、死のうと生きろうと、関係ない。
 要は、読者が「はらはら」して、続きが気になるような表現になることが「一番」
 という感じでしょうか。
 たまたま貸し本屋でかわぐちかいじさんの短編集を借りると対談が載っていて、この人は映画の脚本家志望だったみたいで、そういうことかと思った。


 ラノベといわずに、キャラクター小説というと、キャラを立てて、キャラ萌えを誘発するための道具として、ストーリーがあって、むしろキャラクターが最重要で、お話は属性(もっともキャラクターはキャラクター商売のための属性だが)
 ということで見てみると、これって同じじゃんと思います。
 ただ違うのは、キャラクターに感情移入するのって恋と同じだから楽しいし、その恋したキャラクターでお話を作って遊ぶのは楽しいし(同人)、そして自分が恋するようなキャラを自分でも生み出して他人に提供するのはもっと楽しいし(ラノベの受け手が書き手に回る、リサイクル構造)
 なので、楽しいことを楽しむこと自体は、なにも問題無い。むしろ「きれいにサイクルが閉じてる」ので美しいとさえ言える。