エヴァ9巻 綾波フィギュア付き

予約してましたので本屋にもらいに行ってきました。意外に小さかった(^^;)
足があまり上に上がらないので、マンガの表紙のポーズはとれませんね(^^;)
顔の造りはHGの方がよくできてるかも。


エヴァを読んで、エヴァってそもそもなんだったのかと考えてみた。
細かい勘違いはいっぱいあると思いますが、こまごまとしたガジェットのたぐいは大量に謎本が出てるわけだし、それはどうでもいいと思うので、
自分なりに思うことを書いてみます。


色々とキーワードはありますよね

コードウェーナースミスの人類補完計画とか海外SFから用語をとってくるのはGAINAXの常套手段としても、
そのへんを切り離して、エヴァはそもそも何を考えて何を言いたかったのかと自分なりに考えてみると


そもそもATフィールドは、人と人の間の壁を意味するものですよね。それがどのように科学的に理論付けられてるかは説明は無いと思います。
そういう意味ではSFではなく、ファンタジーだと思いますが、


人と人が絶対に心を通わせることができないという事実を「力」として数値で評価する、いやそれを破壊力として転化するというのは
面白い考え方と思います。
マンガでは可視光線として波長帯を表現していました。アスカが精神汚染をされますが、それはコミュニケーション不能である現象を
物体化して「攻撃手段」としてシンボルとする。


結局、人類補完計画、いや補完計画とは、人の心の穴を補完するものであるはずなので、それはコミュニケーション不可能性を補完することが目的になると考えます。
アスカやシンジがエヴァシリーズとシンクロ率を上げていきますが、エヴァはシンクロしないと動かない。本来なら他者とシンクロはできないわけですから(そのことを現象としてATフィールドと呼ぶのがエヴァのアイデア
本来、人間には不可能のはずのATフィールドの解放ができるからチルドレンは特殊であり選ばれた人間であると言える。その結果、エヴァシリーズとシンクロし、動作させることもできる。
アスカは途中で心を閉ざしてエヴァとシンクロできなくなりますが、それは「普通の人間」になってしまうことを意味するわけです。


そもそも補完計画が、他者との疎外感を消滅させる計画であるとすれば、エヴァとシンクロできるチルドレンたちは既に補完されている人類と呼べると思います。
問題なのは、エヴァは人間では無いので、
エヴァとはシンクロできても、チルドレンたちも人間とシンクロすることはできていない。


すべての人類がATフィールドを解放して、個々の疎外感を昇華させて、心の闇を補完してもらうことが目的であると考えた場合、
その目的の前には、使徒エヴァンゲリオンの存在は、どうでもいい設定だけの存在になりますね。
ただ、人類が補完されるにはどうすればいいかを考察することを目的にした物語にとって、使徒という設定は絶対に必要な条件では無いとことになると思います。
別に使徒なんか無くても、何かの方法を使って、補完を完成させればそれでいいわけですから。


例えばファーストガンダムにおいて富野さんが作り出したニュータイプという概念。ニュータイプとして覚醒することで空間を越えてアムロララァ、シャアは意思を交換できるようになってますね。
ファンネルという兵器も意思をシンクロさせられるニュータイプの特性が前提になっている兵器と言えると思います。
エヴァの言葉を借りれば、ニュータイプはATフィールドを開放できる新人類と呼べると思います。そういう意味ではファンネルは、エヴァンゲリオンということになります(ガンダムエヴァンゲリオンなのではない。ガンダムはむしろエヴァシリーズが使用する重火器の位置に位置する)


劇場版Airで最後に綾波がすべての登場人物の側に立ち、彼らを「はじけ」させます。あの場面はファーストガンダムの最終話のアムロホワイトベースのクルーの脱出を外部から助けるシーンと明らかに重なると私は思います。
ファーストガンダムにおいては「助ける」ものでした。それを通してアムロは「帰れるところがある」と実感するわけですが、あの行為によってホワイトベースのクルーたちはニュータイプとして少なからずも覚醒を果たすことを促進されたように思います。


では劇場版Airでは「はじける」わけですが、あれは決して消滅させられたわけではなく、むしろあの瞬間「補完された」のでしょう。そう考えるとファーストガンダムアムロの行為と劇場版air綾波の行為は、ほぼ同一であると思えます。


ATフィールドを解放させる行為は、たとえばサトラレで意思を外部に発信する行為も同じだと思います。
そもそも、他人とシンクロして一方的に意思を見せるのは「苦痛」でしかありません。サトラレはその苦痛と向き合う話です。
アスカが精神汚染され心を犯されるのはサトラレたちの悲劇と重なります。


その意味ではATフィールドの解放は一方的であってはなりません。常に相互になされないといけません。まずは二人で溶け合い、それがさらにたくさんの人数で増えて、
最終的に全人類が溶け合うのが人類補完計画の目標でなければなりません。


しかし、一番の原点に戻ると、「そもそもATフィールドを開放」して「補完される」ことが「幸せ」になるのでしょうか?
気が狂った母親を目の前にして「自分は特別なんだ」とすすり泣く幼少のアスカの姿は、風の谷のナウシカで、同じように狂った母親とともに育ったクシャナの姿と重なります。


そもそも補完されることは「自分が無くなる」ことです。自分が無くなるから疎外されなくなるわけですから。
しかし、アスカが願うのは「自分が特別である」ことです。使途を倒すことにおいて、シンジよりも優秀でなければならないのです。


考えてみれば、孤立した自分が補完されて他者といっしょになる行為は、「自分だけが特別になる」現象と、完全に反発しています。
孤立したままの状態ではさびしいわけですが、なぜその状態を人間は不満に思うのでしょうか。
たとえば学校や会社、組織に入るとき、その同じ組織を共有することで、人は補完されていると思います。本質的に心は孤立しているけれども、
同じ組織を共有することで、外的な自己は他者とシンクロします。それは別の組織との対立が前提です。
アスカはチルドレンであることで、他の普通の中学生よりは優位に立っている(と自分では思っている)
しかし、おなじ組織の中ではシンジよりも劣等であるであるという意識が、自分を苦しめている。
誰もが一番にはなれない。誰かが一番なら必ず二番が生まれる。すべての人が苦しみから逃れる方法は無い。
苦しみから逃れることが補完であると言うと、
群れることで誰でも多少なりとも補完は可能になるが、結局、個々の人間というレベルでは「それ以上、補完を進める」ことができない。
その本来不可能であるはずの、個々の人間同士での補完を可能にするのが、ATフィールドという概念を導入したエヴァの目的なのだろう。


 巨大綾波が世界を飲み込み、すべての人類が補完されることで個々の独自性を失って単一の存在へ還元されていく。
 それと同じものが、実はある。
 2chのスレ住人は、基本的に「名無し」である。たとえ多数の人間が書き込みをしているにしても、彼らはすべてが名無しと名乗ることで、スレッドという名のエヴァシリーズにシンクロ率100%で、ATフィールドを開放して、補完されている。
 IDやIP記録など足かせは残っているが、2chは現実的な人類補完計画の再現であると言えると思う。


 しかし劇場版airで、シンジとアスカは補完されずに、個体を維持したままだった。他者も別に死んだわけではなく、めでたく補完されただけだと思うが、
 なぜシンジとアスカは残されたのか。
 劇場版イデオンにおいて、富野さんは全人類を裸にして宇宙を飛ばした。あれも補完計画の一つの形だと思うが、
 しかし、男女という差は残され、容姿も残され、結局は霊体のようなものになったというだけで、生存時の肉体的な疎外は残されたままただった。ぶっちゃければ、けっきょくもてるキャラはもてつづけるという意味では「なにも変わってない」いや「あれのどこが補完されてるのか」と小一時間問い詰めたい
 けっきょく「はじけて消えうせ」てはじめて補完は完成される。
 しかし、それでは画面から登場人物が誰もいなくなってしまう。


 話が戻ると、シンジとアスカはなぜ残されるのか。
 結局、世界、シンジ、アスカという三者までに還元された世界とは何を意味するのか。
 結局のところ、シンジとアスカは、補完されることを拒否したのではないか?


 アスカは自分を特別であると望む以上、他人と溶け合うことが許せるわけがない。アスカが残った理由はわかりやすい。
 シンジは、「逃げちゃだめだ」いうことを知っているが動けない少年だ。逃げることも立ち向かうこともできなかった。
 最後にアスカに馬乗りになりながら、彼は彼女の首を絞める行為を選択してしまう。
 それは逃げるわけでも、立ち向かうわけでもない。
 逃げることは文字通り逃げ去ることだし、立ち向かうならアスカを抱きしめるだろう。
 アスカを殺せば、世界中で一人ぼっちになってしまうことはシンジも知っているだろう。


 特別になりたいと邁進する意思の象徴であるアスカが、モダニズムだと考えれば、
 そこから逃げることも立ち向かうことも選択しないシンジはポストモダンの象徴だと思う。


 補完された人々は、結局のところどこへ行ったのか? 彼らは無垢な存在と成った、すなわち動物もしくは人形の世界に行ったと考えられると思う。
 ということは人類補完計画とは、人類動物化計画であり、人類イノセンス計画であるとも言えると思う。
 エロゲーで萌える現象を動物化と東さんが呼んだけれど、ならばエロゲー人類補完計画の現実解と言えるだろう。


 しかし、
 補完されてはだめなのだ。補完されないから人間なのだ。補完されないから生きている意味がある。
 最終的に、人は必ず死ぬ。必ず補完されることは生まれたときに決まっている。
 自ら補完しようとあがくことが人間なのだと考えると、


 補完されることを拒否したアスカと、補完されることを拒否することも受け入れることもできないシンジ君は、
 すくなくとも補完されてしまった他の人間たちとくらべると、世界と戦っていると言えると個人的には思う。
 では、アスカの言った「気持ち悪い」とはなにか。
 シンジはアスカを殺そうとする。アスカはシンジの頬へ手をかける。(殺していいよという了解の意思表明)
 シンジは涙を落とし、アスカの首から手を離す。アスカを殺すことができない。
 そのシンジを眺めて「気持ち悪い」とアスカは告げる。


 エヴァがモザイク、お約束の順列組み合わせで出来ていることは山賀さんが何かに書いていたが、
 データベース消費という東さんの言葉で考えると、ルービックキューブのようにエヴァの世界は見るものが組替えて遊ぶことができる。
 そういうガジェットを全部取り去ってみると、
 浜辺に横たわるシンジとアスカだけになってしまうのか。



 うーん、難しい。あの最後が難しい。アスカを抱きしめられないシンジの気持ちはわかる。抱きしめても何も変わらないもの。
 「気持ち悪い」というより、「情け無い」ならしっくりくるんだが……。
(しかし「情け無い」ではあまりに陳腐である)

 
 まあ、情け無いと告げるほど、シンジを大事に思ってないんだろうな……。
 要するに、「お前はキモイ」と素直に思ったんだろうなと。