夏と花火と私の死体 乙一 集英社文庫

 乙一の著作で、スニーカー文庫のはみな読んでるんですよ。
 ハードカバーは一部だけしか読んでないんですが(やまんばの話は読んだ)
 デビュー作である、この夏と花火と私の死体は、なんか今まで未読だったんですが、
 今朝、出勤前に喫茶店で読みました。


 て、天才だよ……。やはり乙一は違う_| ̄|○
 やっぱり天才はいるんですよ。
 どんなに頑張ってもこの人には到達できないですよ。


 解説で小野不由美さんが「わたしは若いからといってそれは小説のできとは関係ないと考える」
 「しかし、これを書いたとき十六歳だったということに衝撃を受けた」と書かれている。
 わたしも歳は関係ないと思う方だけど、やはりなんか恐ろしいです。
 いくら知能指数が高いとか、頭がいいにしても、十六歳で「この小説を書ける人間」の存在は、ちょっと信じられないです。
 家庭環境とか、そういう下世話なことは詮索したくないですが、
 「どうやったらこんな人間に人間は育つのだろう?」衝撃を通り越して、怖いです。


 今夜は、ちょっと乙一さんの著作を自分なりに考えて見ます。

  • まずはそのアイデアの構造ですが、

 この「夏と花火と私の死体」は、「殺された少女の視点で描写する」というトリックじみたアイデアがとられています(解説でも書いてることなのでネタバレと考えずに書きます)
 これと似たようなやり方を他の作品でもやってます。
 家に幽霊がいるんだけど存在は見えない。ものの移動でコミュニケーションするみたいな話とか、
 頭に携帯ができてしまう話とか、
 なにかしろ非現実的な方法を使って、描くところはあると思うんです。やまんばにしても、どこかSF的なトリックを使う
 (失踪HOLYDAYみたいに特にSF的なトリックが無いものもありますが)


 ここで、注意したいんですが、
 たとえば筒井康隆とかも「やりそうなアイデア」ではあると思うんですよ。
 普通ならありえないことが「現実にあったとしたら」「どうなるか?」みたいな実験作はよくやりますよね。
 しかし、筒井康隆とか、旧来のSF作家だと、そのアイデアを使って、思考実験としての小説というスタンスだと思うんですが、
 乙一はそこが完全に違うと思うんです。
 別に、携帯が頭の中にあったとしても、それを合理的に説明する努力をそもそもまったくしないんですよね。
 夏と花火にしても、「殺されて→幽体離脱した」とか「天国にいきそこなった」とか、
 理由をつけない。
 「殺された本人が語る」というアイデアで語ることが目的なら、
 普通は「おい私の死体を大事に扱えよ」みたいなつっこみをいれてしまうと思うんです。
 (マリオネット症候群・乾くるみデュアル文庫)とか←ごめんネタばれしたかも)
 しかし乙一は「それをしない」
 ただ淡々と神の視点のごとく状況を説明し、描写するだけなんですよ。


 そこがね、乙一の小説はSF的なアイデアは使うけど、SFでは全く無いと思うんです。
 たとえばPKディックも、SF的なアイデアを使って小説を作りますが、「○○発生装置」みたいな「てきとうな名前の機械をでっちあげて」
 それが「まずありきで語る」んですよ。その機械の動作原理とかを「いっさい説明しない」
 そこがディックを「SFというものじたいを破壊してしまう作家」と言わせる点なのだと思うのですが、
 乙一も同様に、非現実な状況を作り出すアイデアをリアルにする努力をそもそもまったくしようとはせずに、小説を作る。
 携帯が頭にある。それは裏返せば、すべては少女の妄想というか幻覚にすぎないと言うこともできてしまう。
 死者の視点で語ることも、死者は生者と会話できない以上、死者が「見ている」という状況を「否定も肯定もできない」
 いや、この小説の死体の女の子以外にも、現実の死体も「みな見ている」と言ってしまったとしても、
「それを完全に否定する科学的な証拠をわれわれはもっていない」
 

 しかし、そういう合理的な説明とか根拠付けをそもそも乙一はまったくやらない。


 逆に、どうしたら乙一のような小説を書けるのかと考えると、

  • 最後にいままで騙されていたと読者が思うようなオチを必ずつける
  • 因果応答をしない。悪い人や罪びとがつねに罰をうけるような展開をしない。
  • 肉体的な痛みや破壊が出てくる。
  • コミュニケーションの物語である。

 まずぱっと浮かぶのはこのくらいかな(もっと考えたり、読み返せば色々と出せるとは思うけど)


 あと注意したいのが、
 この人は、わりと日記とか解説では小市民てきなバカをやるんですよね。
 蟹を食ったとか、仕事をせずに印税でスキーばかりしてるとか、卒論をさぼって小説を書いてましたとか、
  およそ小説で描かれる内容とはほどとおいような下世話なことを平気で書いてしまう。
 解説で小野さんが、
非日常の中に日常の発見が入るところに味がある
 みたいに解説してますが、
 非日常的な天才的と言える小説と、作者が解説なんかで書く小市民てきな内容が、
 ちょうど同じように呼応している。
 と確かに言えるのだと思います。
 たしかにかみそりのように鋭い感性で描写はするけど、とぼけたユーモアもはしばしに挟まる、そのへんは味なのだろうと。


 あと、以前乙一のスレとかをちょっと読んだときに、ファンの人たちが日記を読んで、
「リアルで合ったら嫌なやつだろうな」とか語ってたんですよ。
 あと「切ないし、感性を感じさせる小説なんだけど、
 意外と、そこに出てくる登場人物たちに「作家からの愛が無い」って語ってたんです。
 たしかに、小説のコマとして使ってるという感じは受けます。
 そういう意味では、けっしてキャラ小説ではない。キャラ小説とは一番遠い小説を書いているのではないかと。
 この人は高専から豊橋技術科学大学編入してるわけで、いわばばりばりに理系なはずなんですよね。
 しかし、そのへんは見せないですね(将来は解りませんが)
 この人がどういう生い立ちをしているのか気にしてはいけないのですが、なんかやはり気になりますね。
 

 すくなくとも印税がなくなったらまた書きます。みたいなスタンスはシリーズものを連載している作家とは大きく違うわけですが、
 しかし、書き続けないと作家でいられないというのが現実のなか、
 短い作品を単発で出していけるのは、それは天才だから許される状況だよなとかは思いますけども。


 けっこうだらだらと書いてしまいました。