artifactのラブロマ特集
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━!!
http://artifact-jp.com/mt/archives/200402/loveroma.html
>ただ好きな娘と手をつないで、胸を張って歩きたいだけなんだ。
そう言ってしまうと、ただの純愛マンガって感じに見ててしまうんですが、
わたしは「ラブロマ」は、従来にかつて無い「全く新しいタイプのマンガ」と思うんですよ。
なんていうか、つかみ所が無いんです。
新しいと思うんだけど、何が新しいのか、説明ができません。
>何に好意を感じるかといえば、そのエキセントリックな行動であり
たしかに「普通なら言わないような言動や行動」を「とってしまう」
そこは「願望充実」の面はあるかもしれないと思うんですが、それだけでは足りないように思えます。
絵はすごい古いと思うんですよ。この人何歳か知らないけど、
なんていうか、絵を見ていると、
「ゆうきまさみ」「とりみき」なんかを連想するような古さがあると思うんです。
主線も太いし、ポーズも竹本泉みたいだったりして、なんかはしばしが古さが漂うっていうか、
なんかレトロな絵風ですよね。
その絵柄はおいておいて、内容なんですが、
たしかに直球勝負って感じは受けるんですが、
いわゆる純愛とかじゃ全然違うと思うんです。
「あなたが大好きです」と言い切るけど、
「あなたが大好きです」と言い切るから「あなたが大好きなのです」という意識を持ってると思うんです。
普通の純愛ものなら、大好きだから大好きなんですという、ある意味盲目というか、思い込みを肯定する気持ち=愛の存在を信じる立場があると思うんです。
しかしこの主人公は、「はっきり主張する」ことが「大好きである証明」みたいな醒めた分析はもってると思うんです。
しかし、「皮肉とかそういうものがいっさい無い」
あと、
非常に正論を吐きますよね。
「(根岸さんと)キスはさせてもらいました」
と父親に堂々と言って、
「なんだと? このヤロウ」
に対して「まだセックスはしてません」
普通は、正論を吐くキャラは、「鼻つまみ」になることがほとんどだと思うんですよ。
堅物ですよね。普通は。男の委員長タイプとか。
しかし、正論を吐くくせに、すべてが
「実はそういったほうがいいのに、皆が避けて通っていて、おかしいのに不思議に思っていない所」を、常についてくると思うんです。
例えば、杉本さんが告白してくる話でも、
普通なら「セカンドヒロインの告白を利用して、ヒロインとの関係を一度壊して」「再構築する」
為の手段にすることが普通は多いと思うんです。
でも、ラブロマは違うように見えるんです。
(ヨコレンボ編とか、ケンカして仲直りって書いてはあるんですが、どうもそっちの効用とは違う面白さがあるという意味で)
「好き」といわれて、根岸さんのことを思って、「拒絶する」わけでも無いし、「二股をかける」わけでもないし、
根岸さんが、杉本さんの関係に嫉妬するわけでもない。
従来の「定石」をまったく使ってないと思うんです。
わたしは読んでて、すべての場面で、外していってると思いながら読みました。すべて直球なんですが、ぜんぶ定石を外していると思うんです。
そういう意味では、展開がすべて逆説なんだと思うんですよ。
しかし逆説特有の、「風刺」感をまったく感じない。
主人公を「正直」と評しているんですが、これはただの正直ではないと思います。
大好きだから「大好きです」というのではなくて、
「大好きです」というから「大好きなんです」
って気持ちはあると思うんです。
すくなくとも、「そうあるべき」と主人公とは思ってると思う。
今も単行本を読み返したんですが、この人の新しさが、なになのか? ってのは、ちょっとはっきり解らないです。
新しいのは確かなんですが、どう説明していいか解りません。
「言葉にすることで、理解は進んでいくはず」みたいなことでは説明が足りないと思えます。
なにか凄い新しさがあると思います。このマンガには。
「大好きだー」にしても「頑張って言って見ました!」
って感じではなくて、
「なんで、あなたたちは大好きだーといわないのですか?」という
批判心はあると思うんですよ。
放送室でマイクで「好きです」と言ってしまう場面も、
そもそもラブコメというのは、「好き」「恥ずかしい」そういう気持ちを茶化す所があると思うんです。
そのへんが突き抜けて、別の地平に逝ってしまっている。
批判心は感じるけど、けっして押し付けないし、
むしろ、星野君の根岸さんの「全肯定」の物語なんですよね。
「ALL=OK」の世界。
愛少女ポリアンナが「よかった探し」をしてましたが、
星野君は根岸さんをすべて肯定していく、非常に前向きな態度の連続で。
いやな言い方をすると、ポリアンナは「よかった探しをすることで、自分が幸せになる」のが目的なんですよね。(批判を捨てるわけなので、ある意味思考停止)
それと同じように、
星野君は「根岸さんを大好きである」と全肯定することで、「自分が幸せ」になっていると言えると思うんです。
1月号で、「でも今は世界が輝いて見えるんです」
ってホット珈琲を飲みながら語ってますが、
ここで「子供のとき、花がきれいとは思ってなかった」と言ってますが、
これは「花がきれい」なのではなくて、
「花がきれいと思えるようになっているから、キレイだと思える」という意識の表明と思うんです。
別に、皮肉を言ってるわけではなくて、
「それが見えるようになって」はじめて「それは見える」という主張を感じます。
いや、そういう風になるべきである(と星野君は思っている)
(星野君が思ってるだけで、それを読者に強要しているわけでは決してなく)
ぶっちゃけ言うと、根岸さんは「そんなに可愛くないですよね」
その「愛」はかなり過剰ですらあると思う。それはユーモラスでもある。
皮肉になりそうで、皮肉にならない危うさ。
「根岸さんを精一杯愛している自分は誇れる」
そういう風に考えると、非常に星野君はナルシスなのではないかと。
はっきり言うと、根岸さんそのものは「置き換えてしまってもかまわない」のではないか。
いや、星野君は根岸さんのためなら「命もかける」かもしれなけど、
それは「命をかける自分の輝き」であって、
根岸さんと星野君の間には、なにか深い闇を感じる。
(いや本質的にそれは当たり前とは言え)
でも、結局、星野君は自分が好きなだけなんでしょう
とは言えない「なにか」がある(と思う)。
その連続が「新しい」(のではないだろうか)
↑違う。ナルシスじゃない。むしろ自分がかなり嫌いなんだろうと
嫌いな自分を変えるために、頑張ってるんだろうから。
でも、好きにせよ、嫌いにせよ、自分中心であるのは確かに思える。
(じゃ、他人中心ってなんだよ?って話はあるでしょうが)