制約を課す

http://d.hatena.ne.jp/inuzou/20040119#p1

>映画やテレビ番組と違い、小説はその誓約が少なく、持て余す程の自由が書き手の前に突きつけられてしまいます。
>まずはその自由をどう制限を加えていくかというのも、書く手法として有効なのでしょう。
 そうかもしれません。


 ちと、強引に時事ネタとくっつけてみると、


以前メモした数学者の人が、
養老さんの「バカの壁」を批判されてたんですが、
http://godel.m78.com/jyohotosyokugyo.html

>それよりは、私は巨大なバカの壁(これが上に書いた、最低限の人間の規格化)の中に、低いバカの柵くらいを沢山作って、その柵の存在を知らせることにより、自分たちの周りに大きなバカの壁があることを認識させるという方法の方が正しいと思っています

 わたしは制約をかすことはある意味、バカの壁を作ることだと思うんです。
 でも、判ってやってるんなら、そのほうが効率が上がるし、たとえ創作物でも規格化は有効ならやってもいいと思う。
 キャラ小説で書いていた、「俳句」の文化なんかも、制約の上に成り立ってるので、
 そういう自らを縛る小世界のなかで「何かを作る」みたいな文化は日本にはあると思うんです。
 「バカの壁」はたしかに思考停止ではあるかもしれませんが、
上記のリンク先の方が書いてらっしゃいますが、
「制約」「規格」というものがあるから、一般市民は仕事ができるんだと思うんです。
 バカの壁が無かったら、すべてを考えないといけないので、なにもできなくなると思います。


 しかし、「バカの壁」はベストセラーです(^^;)
 それは、「判りやすい」し「見せ方も上手い」と思うし。

 わたしは立ち読みしたのではっきり覚えてませんが、初めのほうに、「男性と女性に妊娠に関するビデオを見せて、男性が興味を示さないのはバカの壁があるから」とか書いていたと思いますが、
 このへんの「見せ方」は絶妙ですよね。狙ってるというか。


 それは、発熱地帯とartifactが言っていた「プロとアマの差は見せ方の差」にも通じるのかなと。
 「売れたものが勝ち」という路線から言うなら
 なんか強引なオチですが。


 養老さんはよく宮崎駿さんと対談しているので、考え方が合うんだと思うんですが、
>形式化されている。だから情報化は悪い
 このへんが、宮崎駿さんの自然観とかと重なってるのかも。
 福岡の人工島開発とかのあたりも考えてみたり(^^;)
 もっとも、アニメって表現方法自体が、すごい抽象的な記号化された手段だと思うんですが。
 なんだかよく判らない話に。