秋葉原事件の被害者撮影 モラル論議が巻き起こる (J-CAST)

http://www.j-cast.com/2008/06/12021731.html

   「ガ島通信」で知られるブロガーの藤代裕之さんは、日経ネットの6月10日付コラムで、投稿者モラルの問題を取り上げた。そこで、藤代さんは、「誰もが発信できるとなると、『野次馬』と『報道』の違い、そしてマスメディアの正当性も揺らいでくる」として、「これまでマスメディアの人たちが経験した葛藤が誰にも起き得る」と指摘している。

ネットの発達と、動画投稿が当たり前になったことで、従来考えられなかった事態が明らかになっている。


「野次馬」と「報道」の違いはあるのか?
マスコミュニケーションの手段を持たないのが野次馬だったが、携帯カメラでネット配信することが可能になった現代
マスコミュニケーションの手段は誰でも持てるものになった。
(漫画家が出版社に反論できるのもブログというメディアを持てたからだ。皮肉なことに従来は言論を封殺されていた)


報道の中の人は言う「ペンは剣よりも強し」「民主主義を守るのは、報道の自由だ!」


しかし、本当に強いのは「記者クラブなどの既得権益を持つ報道機関に属している俺のペンはお前らのペンよりも強し」なのだろう。


被害者を撮影する行為が不謹慎なのは確かだろう。
しかし、それは、報道機関、マスコミがやったとしても同じのはずだ。
彼らが報道機関だから当然であるというのは、思考停止が働いているのだろう。
結局の差は、報道を職業にしているかどうかの差かもしれない。プロなのかアマなのか。
(話が飛ぶが、一般市民(アマ)が犬・猫を殺すのは事件だが、屠殺場でプロが牛を殺すのは黙認される)


しかし、映像に関して言えば、報道の正確さ、速さは、事件の場にいた市民の方が上だろう。
(一部の特権者が報道を代行することで、偏向報道が行われれる。一般市民がやっても同じかもしれないが、大量の量を質的に選択できるので、視聴者側に確かな目があれば、より安全である)
これも結局は、直接民主主義・間接民主主義のように、
「本来、すべての人が報道すべき」ことを「一部の人々が代行している」だけかもしれない。
ネット、ITの普及で、わざわざ間接構造をとる意味合いが薄れてきたと言えると思う。