マリみて 春

 二話からは毎週見てます。
 なんていうか、この作品のどこか天上人のような浮世ばれした雰囲気は、
 そもそも「ごきげんよう」という結界呪文や、
 姉妹関係という仕組みが、「メタフィクション」というか「劇中劇」なんだと思う。
 入れ子構造の劇になってる。演じることを演じてる。
 でも、それはメタフィクションではなくて、それが純粋に本質になってる。
 気がする。
 なんというか事件とか問題が発生しても、醒めた目で観察する雰囲気。
 それは、なんか「感情移入できない」って見方も出来るだろうけど、
 ある意味それが売りでもあり。
 でも「それ以上おちょくると、グーで殴りますよ」って台詞は好みだった。
 メロンブックスで立ち読みした同人誌に、
 「男性同人誌のレズモノは、別にレズが好きなんじゃなくて」
 「男を排除した結果、レズにするしかなかった」と「男性同人におけるレズもの」を評していたけれど、
 女性のやおいとは、その成り立ちが本質的に異なるわけね。
 でも、エンジェリックレイヤーでも、鳩子がみさきちにキスするシーンはなにか暖かい気持ちになる。トリコロの八重を中心にした周囲の愛情もやはりそうだと思う。
 それは性を超えた愛情だと私は思う。結果としてレズだけど、別に「女性じゃないといけない」とは思ってない。
 ただ男性を排除した、その関係に純粋に愛を見るだけで、むしろ無性の世界だと思う。
 一方、女性がやおいを見る視点って、女性が女性自身を「汚い」と思う気持ちが原点なんじゃないかと思った。女性のままではなくて、男性になってそのシーンに入って感情移入するってことは、
 男性同人誌の男性排除と同じようではあるけれど、どこか大きく違う気がする。
 なぜ、性別があるのかと考えると、遺伝子の多様性を生み出すためと本に書いてあった。ただ増えるだけなら無性生殖でいい。
 実際に、女性だけで増える生き物はいる。男性が存在するのは遺伝子を変化させるため。
 だいたい。男が女の子を可愛いと思う気持ちを突き詰めると、そこに「明確な根拠」は存在しない。
 夕焼けが美しいとは言っても、なぜ美しいと感じるのか、は誰も説明できない。そう思うように、我々はできているとしか言えない。
 だいたい「赤い」と感じるのは、赤いように見えるからだ。たんに白色雑音のうちの「赤い」と感じる波長の光を反射する物体が「赤い」と思うだけのことで、
 その物体を、我々が青いと感じるようにできていれば、それは青い。そうなれば血は真っ青に見えるだろう。
 同性同士の愛は、性別という存在に反発する意味で、ある意味純粋なのだろう。きっと。