黄泉がえり
テレビであったんでくりぽんで録画してたんですがさっき見ました。
そういえば、九州SF大会のQ-CON6に参加したときに、
ゲストが梶尾先生で、黄泉がえりが映画になりますって話を聞いてたんですが、
結局映画館で見ることは無く、レンタルもせず、テレビで見ましたが、考えてみればあれからけっこう歳月が経ったのだなあと。
実を言うと、小説も積読でまだ読んでないのですが(^^;)(発行60万部)
けっこう面白かったですね。たしか当時は意外なヒットみたいな感じだったと思いますが(観客動員230万人)
SF大会のときは、舞台は熊本の阿蘇なんだけど、なんか地理的におかしいとか、映画化で周囲が騒動になる話とか、色々と面白い話を聞かせてもらったのですが、
死んだ人が蘇ってくる。そのことを巡る騒動みたいな感じでしょうか。
ぶっちゃけて言えば、ゾンビみたいなもんと思いますが(おい
このへんを強引にPKDとか乙一と結び付けてみると、
PKDなら「蘇った人々のせいで世間が迷惑を被る、もしくは蘇った人々の方が世間で役に立つ」みたいなユーモアとブラックジョークを混ぜたような展開にすると思います。
乙一だったらどうでしょう。「はじめ」みたいに「蘇った人々を虚ろである」と認めながらも「でも『そのまま』肯定していく」のでしょうね。
この『そのまま』という所が面白い点で、
PKDは「偽者」は「本物」と変わらない。もしくは「偽者」こそ「本物」である。みたいな信条が根底にあると思うのです。矛盾というか相克が根源にある。
乙一はそれをさらに進めて、「偽者」は「偽者」だけど、「偽者」はそのまま「否定することなく肯定する」
それは「暗黒童話」の記憶喪失の主人公の少女もそうだろうし、
ある意味、消極的なひきこもり世代的な、「建設的ではない姿勢」かもしれないけど、
偽者が本物を越える瞬間みたいな、建設的な思考ではなくて、「偽者」は偽者でもいいじゃないか。偽者には偽者の存在価値がある。
みたいな「ある意味、自分を変えずに、そのまま肯定するような姿勢」を感じます。
その消極的な姿勢をつらぬくためには、「頭に携帯があっても」それを不思議には思わず、まして説明しようともせず、
「幻覚なのかよく解らないけど頭の中にある携帯で誰かとつながっていられた」その「出会い」は「そのまま大事な思い出なの」みたいな、
気持ちが根底にあるのだろうなと思う。
では、黄泉がえりはどうなのか。PKDのように皮肉なユーモアというより、梶尾さんの「せつなさ系」をそのまま描いたような展開で、
とくに抱き合った瞬間がこの映画のすべてを現していると思うわけで「もっといっしょにいたかった」みたいな。
でも、最後に「死者のおかげで幸福を知った」みたいな言い方は、「偽者をそのまま肯定する態度」ではなくて、
ある意味、従来のありがたい説教型かなと思ったりする今日この頃。
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黄泉がえりがPS2用のゲームになるらしい(^^;)
http://www.d3p.co.jp/yomigaeri/
ヒロインの声優は、小倉優子だって(^^;)