大きな物語
http://www3.azaq.net/bbs/300/dakini/
毒舌BBSより
>大きな物語の終焉など、戯言にすぎない!
人工事実から引用して、
http://artifact-jp.com/mt/archives/200312/hagarenmemo.html
>エニックスの他の漫画は二次創作の匂いがするが、『鋼の錬金術師』は
> それ単体で成立する強さを感じる。「大きな物語」というか。
(ロキとかスパイラルは匂うってことか)
>大きな物語は死んだとか真顔でほざく人間はさっさとこの地球上からフェードアウトしてほしいと思う
とDankiniさんは「激しく同意」している。熱いな(^^;)
この大きな物語崩壊にかんしては東さんの「動物化」にも書いてあるし、大塚さんの「物語消費論」も大枠では、そうだと思う。
古くは、中島梓の「わが心のフラッシュマン」とか「ベストセラーの構造」とかも、そのへんの源流と思う。(中島梓さんの意見は、岸田秀の亜流になるでしょうが)
大きな物語……
>『鋼の錬金術師』はキャラクターの魅力だけではなく作品単体で成立する世界観の強さを感じる
そうねえ。ぶっちゃけた話し、
1.キャラが立ってる(だけ) キャラ萌え、キャラ原理主義
2.物語が中心 キャラはそえものに近い ドラマ原理主義
3.キャラも物語もたってる 最高レベル
って感じに分類すると、大きな物語ってのは難しい。二次創作で出すのはまず無理だろうし、パロディは「あくまでキャラのパロディ」という形にならざるをえない
大きな物語を描けるなら作者だけと思うし。
やっぱ作るのが難しいんだ。
いや違う。本来なら作家になれないレベルの創作者でも、
「キャラがかわいい」「キャラが立ってる」だけで「作品として成立する」「市場ができている」
そのことが従来と違う点なんだと思う。
けっして「大きな物語を否定する」ことではなくて、「大きな物語」によらない「作品が成立する」その変化を、上記の評論者は言ってるんだと思う。
たとえば、グインサーガとか、大河ドラマなわけだけど、これがはたして「大きな物語」なのか?
ガンダムSEEDは完全に「キャラ萌え作品」と思う(そもそも、戦争を描きたくて、作品が成立してるわけではぜんぜん違うだろうし)
ここを補足すると、富野さんは「上部存在と戦うためにガンダムの戦争という枠を利用しているわけで、そもそも戦争の悲惨とかそういう判りやすいものは、下のレベルに属すると思うが、
ガンダムSEEDの製作者には、上部存在と戦うという意識みたいなのは無いだろう。
いやそれは当然であって、安保闘争とかもう無いし、そういう意識があるわけないし、そもそもそういう意識があるから偉いわけでも有用でもない、けっきょく意味なかったし)
かといって、「大きな物語>小さな物語」という構図が成り立つわけではない。
日常生活のちょっとしたことに「人間性の俯瞰」が現れることが多い。
むしろ日本文学的な志向は、そっちにあるような気がする。
大きな物語はエンターテイメントにいくだろうし。
(むしろキャラ萌えの独立性、カプセル化は、部品再利用という意味で、プログラム技術のオブジェクト指向とリンクしてると思う)
しかし、「大きな物語」に感動したいという気持ちは自分も強く持ってるし、子供が読むものとしても、そう言う作品を読めるほうが幸せに思う。
キャラ萌えは、作者と読者がおなじカプセルに入れるので、うちわウケ、楽屋おちという意味で、消費者にカタルシスを与え、
それが購買力、同人誌発生力、など強さを生む。連携する。
大きな物語は、大枠で宗教のように読者をまとめる力はわあるけれど、大枠では読者の間の連鎖を解体し、ばらばらにする。
しかし、現実世界や、人間についての意識を読者ひとりひとりに「発生させる可能性」は強くなる。
たとえば「世界名作劇場」は「大きな物語」なわけだけど、これを「ペリーヌ萌え」とか「クララらぶりー」とかキャラ萌え文脈で読んだほうが、
ぶっちゃけカッコイイ。
「大きな物語」というのは「あるいみ誰でも判ること」「それをわざわざ言及するのは、場の読めないバカ」がすることであって、
そのへんからキャラ萌えが進んだこともあると思う。
>これは過去からみると逆転しているといえるだろう。
人工事実のいう逆転はそれもあると思う。
本来、少年漫画は「海賊とか宇宙とかロマン、冒険」など「大きな世界」を楽しんできた。
少女まんがは「学校の恋愛」「バレエ学校」とか、「小さな世界」にメスをいれてきた(そのことが少女マンガの文学化を進めた)
しかし、これが逆転して、
現在女性が好むのは「ワンピース」とか「大きな世界」(ワンピースは子供向けなんで、レベルは低いにしても)
一方、男性は「ギャルゲー」に代表される「小さな世界」キャラ世界(あずまんが大王も、そう)
これは完全なぎ逆転現象。
ギャルゲーの素材は、昔の少女まんがにごろごろあるという意見(以前moeTVで見た)は、そのことに合致している。
今、男性が好んで消費しているものは「昔の少女まんが」である
一方、女性が消費しているのは「昔の少年まんが」である。
しかし、女性の消費は「同人誌が作られる」ことを前提にした消費であって、
昔の少年マンガが消費されていた時代の少年の意識とは違う。
何が違うのか、それは性意識の差も当然あるのだろうが。
すくなくとも言えるのは、男性は好みが文学化しているのにたいし、
女性はエンタメ化している
ということは言えると思う。
本来、男色はミシマをはじめ耽美な芸術であって、そのへんのことも考えてみるべきだろう
(そーいやーNHKの芸術番組に、三輪さんが出てて、三島由紀夫からみの話しをしてた。
妖艶な美少年。というのが一番レベルが高いのです。みたいな話し
そもそもホモ、ヤオイ、はファンタジーであって、現実にそれを実現したいと女性が思ってるわけではないと思う。
それは人工美に近い感覚で、ミシマ文学に重なると思う。自然写生ではなく、自意識の解体としての私小説でもなく、
純粋に「芸術」としての、「完全な創作」
それはむしろ思考実験、パズル創作に近い感覚と思う。自然そのものを否定して、自然が芸術を模倣するという意識。
相克にこだわるミシマの美意識と同じ感覚が801に流れていると思う。
そうでありながら、「大きな物語」というエンタメも導入する。女性の作品好みはどこへ向かうのか?
考えると、三島も「夏子の冒険」とかエンタメ作品をいっぱい書いてるわけで、大きな物語そのものを解体し、美に還元する行為をすでにやっていると思う。
ミシマが剣道したり肉体ほこったり、屋敷作ったり、軍隊ごっこをしてたのは、あくまで「人工美の創作」であって、
「ミシマは右翼」とか、「キモ」って意見は「完全に間違ってる」
それはボーイズラブと同じで、「純粋な芸術」であって、「世間とは切り離さないといけない」
(でも男色同人誌買いまくる女性はキモ!って思う意識はぬぐえないわけだが(^^;)