3Dゲームでアニメ映画を作る

http://artifact-jp.com/mt/archives/200307/machinima.html
Artifactから。

 リプレイってのはいいと思いますね。
 毒舌BBSで「米国の草野球文化」まで語ってたのは流石って思いましたが、
 「ビデオカメラ」で子どもを撮影するだけと比べれば、
 自分のゲームのリプレイを映像で残すのほうが、よほど建設的かなと思う。
 そのへんが一般的になれば、映像文化も見るだけより、
 作る方を考える層が増えるわけだし、良いことと思います。
 ネットでのスポーツゲームを、観戦して楽しむなんてのも、なんか未来的です。


 以前、チャンネルBBのネットゲー特集で、韓国にはネットゲーのプロリーグがあって、「ゲームの対戦を観戦する」という文化が、日本と比べて進んでいるって特集がありました。
 コンピューターのゲーム対戦を観戦するっていうと、なにかメタ的で、そのせいもあって、軽薄な感じがしないでもないけど、
 見てて面白いと思える内容があれば、本物だろうとネットゲーだろうといいわけで。
 (ただ、韓国のネットゲーのあり方は、バーチャルなのでバブルな感じはします。しょせんは、モノではない浮き草で、基盤が弱いような感じ)


 以前、MSがインタラクティブにムービーを作るソフトを販売してて買って遊んでたんですが、最近は聞きませんねえ。
 「3Dムービーメーカー」とかいう名前だったんですが。
 3Dで、アバターを舞台に設置して、声をマイクで吹き込んだりして、映像を作るソフト。
 95年に発表。
 検索しても、ほとんどヒットしません。
 けっこう当時としては革新的で面白かったですが。
http://thebbs.jp/game/1048755656.html
http://www.nichigaku.or.jp/software/3dmoviemaker.htm
 隠れた名作みたい。
 当時は、小学館とタイアップしてドラえもんキットを販売したり、コンテストもやってたんだけど。


 新型の六角大王が、舞台を同梱して、映画制作キットに近づいているけど、
 95年にすでにMSが作り上げてるんだよね。
 音声のアフレコとかBGMまでシステムにあって、「困ったとき」のシナリオ講座まで同梱されてた。

続・英日翻訳CGIの制作

 句をまとめる重畳処理とは別に、「前置詞+名詞」や「形容詞+副詞」など、英文と和文で、転置されているものを構文解析の前に転置する処理をいれた。
 これで構文解析がさらにシンプルになった。


★原文:A pretty girl know outline of processor usually

★整形:;a;;pretty;;girl;;know;;outline;;of;;processor;;usually; | ;a;;pretty;;girl;;know;;outline;;of;;processor;;usually;

★品詞解析:(8)(5)(1)(3)(1)(7)(1)(6) | (8;)(5;かわいい)(1;少女)(3;を知っている)(1;概要)(7;の)(1;プロセッサ)(6;たいてい)

★重畳:(1)(3)(1)(7)(1)(6) | (1;かわいい少女)(3;を知っている)(1;概要)(7;の)(1;プロセッサ)(6;たいてい)

★転置:(1)(3)(1) | (1;かわいい少女)(3;を知っている)(1;たいていプロセッサの概要)

構文解析:SVO | S:かわいい少女は| V:を知っている| O:たいていプロセッサの概要|

★構文変換:SOV |

★訳文:かわいい少女はたいていプロセッサの概要を知っている。

続・英日翻訳CGIの制作

 福大の柴田さんの解説を読んで、「推敲」を追加。
http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/


 「私は私の」などの「英語的な」主語明確な表現を
 なるべく「主語」を省略する日本語的な表現に直す。
 これは単純なパターン置換えだが、
 次に「白い青い車」などのように、語尾に「い」が続くテンポの悪い文章を、「白くて青い車」などのように直す。
 これには「い#い→くて#い」という風に辞書に「マクロ」を導入した。


 実際、人間は文章を書く場合、語尾の調整はこれに近い作業をしている(実際は読んだときのリズムが優先だったりなのでここまで単純ではないけど)


 記事を読んだりして、思ったけど、
 上野さんと柴田さんのUS式翻訳システムの特徴は、


 まず「ボトムアップ」にある。
 文章に「文章構造」を頭からはめ込んで解析するトップダウンではなくて、単語ごとの評価を全体の文まで重ねていく。
 これは最近はよく言われる概念だが、いまだに「トップダウン」から抜け切れてないことが多い。
 ロボットの制御でも、中央制御処理をせずに、クモロボットが足単位で分散処理をするのは「ボトムアップ」処理だ。


 つぎ、パターン処理と、ルール処理の融合にある。
 一般的には「形態素解析」や「構文解析」などを「ツール」ごとに組み合わせて作るために、
 「段階が分断されてしまう」こういう「モジュール思想」に陥りやすい。
 プログラムを製造する立場からは保守もしやすいし、他人の作ったツールを利用できるので楽になるが、
 人間の文章処理の仕組みなどを観察すると、語句を認識しながら、文章を認識しているように見える。
 各段階を、明確に別けずに、並列にごっちゃに処理をしているように見える。
 このあたりの、「モジュール単位で別けない」という考え方。
 「情報科学的に洗練された」と思える手法ではなくて、
 あくまで「人間がどうやっているか」を中心にした思想が、US式の根底概念なのだろうと思う。


 現在の翻訳処理の状況。

★原文:I give my father a old pretty car

★整形:;I;;give;;my;;father;;a;;old;;pretty;;car; | ;I;;give;;my;;father;;a;;old;;pretty;;car;

★品詞解析:(2)(3)(8)(1)(8)(5)(5)(1) | (私)(をあげる)(私の)(父親)()(古い)(かわいい)(車)

★重畳:2311 | (私)(をあげる)(私の父親)(古いかわいい車)

構文解析:SVOo | S:私は| V:をあげる| O:私の父親| o:に古いかわいい車|

★構文変換:SOoV |

★訳文:私は私の父親に古いかわいい車をあげる。

★推敲:私は父親に古くてかわいい車をあげる。

結城浩さんの日記(7月11日)より

http://www.hyuki.com/diary/dia0307.html#i11

 こ、こみじぇね画像が(・∀・;)
 ゴスロリファッションやばすぎるか……
 暗号本の出版がんばってください(・∀・)/


http://www.hyuki.com/diary/dia0307.html#i03_23
 wikiの精神と、聖書やギリシア神話の類似の記述がある。
 名無しさんによってよってたかって編纂されていた成果。
 しかし、意外に統一性がある。その意味はなにかみたいな感じ。


 2chも名無しのわりには、意外に統一性がある。
 乱雑のように見えても、そこにはルールが流れている。
 ときどき、神も光臨される。


 補足すると、
「皆で共同して編纂しよう」としても「結局ゴミが増える」だけに終わることが多い。
 絶望に近いと思う。書き手を絞ったとしても、本質的には「ノイズを集める」だけに終わる可能性が多い。
 それは書き手のレベルの問題ではなくて、
「作品を作る上での、共通した制約」の問題だと主張しているのだと思う。
 結城さんが言う「聖書を作りあげる過程での、神の存在」


 これは、わたしはクリスチャンではないので、
 自分的に、結城さんの言葉を言い換えると、
 「制約を課した条件」「個々の芸術観とは別に、作品に統一性を持たした共有概念」の存在が「神」であったと。そしてそれは「信仰」であったと。

SF最後の巨人

 って映画を「すかぱー」でやってたいたので、ちょっと見たときのこと。
 30年か20年くらい前の映画で、主演は「ユルブリンナー」


 バイオハザードで文明が崩壊した米国が舞台。
 いわゆる世紀末崩壊社会を描いたもの。
 構図的に、
「平和を基本にして、植物を育てたり、女性を大事にするコミュニティ」と「カリスマ暴君を中心にした暴力の階層化されたコミュニティ」があって、
 均衡を保っていると。
 そこに、主人公である「一匹狼」がやってきて、「その均衡を徐々に狂わせる」


 このへんの構図は「ポストマン」もまったく同じ。
 この手の世界観のドラマではよくある話だ。


 で、見かけの「平和」と「暴力」という構図にも関わらず、
 「平和集団」は内部では「食物を取り合って、こそこそと対立しており」「なにかあるとリンチと称する祭的な制裁に走る」
 一方で、
 「暴力集団」は表面上は粗暴だが、内部は階層化されており安定している。
 その安定は猿山の動物的な安定でもあり、封建主義の安定でもある。暴力を日常から肯定するので、内部に膿がたまらない。


 平和集団は「表面上、暴力を抑圧するため」に「内的に暴力衝動が膿となって残り、なにかで噴出する」
 対偶という見方があるが、


 見かけ:平和←→暴力
          X
 内部  :暴力←→平和


 となり、待遇は「同一」である。そして、どちらのコミュニティも「暴力」は一定に保存されている。
 「暴力衝動保存の法則」である。


 このあたりに関することは、宮崎駿も自著で書いていた。
 「風の谷」の住民は「王」という存在によって、動物的に階層化されており、「平和である」。理想的な国家を形成していると。
 しかし、平民出のクロトアや、平和なコミュニティから逸脱していく「ナウシカ」の存在が、「非人間」であり、
 「安定性を破壊する」のようなことだったと思う。


 「SF最後の巨人」でも「シュナの旅」のように「種」を巡るドラマだった。
 バイオハザードで汚染された世界で、「種」を復活させる。その種が世界の命運を握っており、
 その種を「平和であるという島」に送り届けることを、コミュニティーの長は、主人公の流れの殺し屋に頼む。
 殺し屋は、長の娘を連れて、地下道を通って、島を目指す。植物の「種」と子どもを妊娠している娘という「種」を同時に携えて。
 暴力のコミュニティは種を巡って、主人公たちを追ってくる。
 すでに、平和のコミュニティは崩壊し、長はリンチで「住民の手によって殺害されている」


 最近の「子どもを巡る事件」の報道や、世間の反応を見ていると、
 「暴力はよくない」と抑圧する。事件は批判する。
 その一方で、「暴力衝動保存の法則」が忘れられているように思う。
 「人間は平和でありさえばいいほど、枯れた存在ではない」
 暴力衝動はなんらかの形で、昇華しなければ「抑圧されて溜まる」暴発も当然だろう。


 「暴力を批判して」「あるべき子どもを求める」それは「くさいものにはフタをするのと同じである」
 暴力衝動が発散できない社会にしておいて、さらに表面上否定したところで、膿が溜まるのは当然だろう。
 スポーツは代用にはならない。健全な遊びで発散なんてお題目は馬鹿げている。
 暴力衝動は「他人を蹂躙して」「ぼろ衣のように扱って」「相手を破壊して」成就される。
 そういう衝動を満足させて、はじめて意味がある。


 まずがんじがらめに体を縛り、動けないようにしておいて、「暴力はよくない」と耳元でささやくことは、
 「暴れてくれ」とお願いしているようなものではないだろうか。
 あと世代論は勘弁してくれ。


 子どもたち取り扱いでは、欧米は「子ども=人間以前」とする社会だそうだ。
 子どもは人間ではないので、徹底的に抑圧する。自由を与えない。
 だから、子どもは親離れが早く、個人主義も確立する(個人主義は利己主義ではない)


 一方、アジアは子どもにもお小遣いをあげて、消費活動に参加させる。お小遣い文化圏であると(これは以前、岡田さんがラジオで言っていた)
 子どもをめぐる社会の扱いは、明確な差が有る。
 岡田さんは、だからこそ、お小遣い文化圏では「子どもの目利き」が発生し、「自分で購入する態度」が「おたくを生んでいる」土壌と観察していた。


 子どもと大人。たしかに「子どもにはパワーがある」
 大人は「安定して」「洗練される」のでなくて、「パワーを失う」のだと思う。
 ERなんかでも「パワーを補充するために」
 アンフェタミンを服用するエピソードがよく出てくる
 「大工仕事をしようにも、意欲がでないので、薬を」


 元気になるために「ぐっすり眠る」ことと同じくらいの意味で「アンフェタミン」を服用するのだ。
 日本では麻薬はそれほど日常ではないと思うが、
 「酒を飲んだり」「煙草を吸ったり」することはパワーを補充している。
 己で解決せずに、「無自覚な」「無根拠」のパワーを妥協して手に入れる行為に甘んじる。
 「酒を酌み交わして」いかにもかっこいいとかしゃれているなどとイメージがあるが、
 構図は「薬」をきめている逃げと同じだ。ただちょっと副作用が軽いだけのことだ。
 楽しいという気持ちも脳から麻薬が出るからだし、限界で走るときも自分を騙すためにアドレナリンが出る。


 大人になると、それが進むとパワーが減る。寝ることでパワーは戻ってくるが、パワーは減る。
 子どものパワーは強大だ。麻薬を外部から入れなくても、自分を維持できるその体は強大だ。
 子どもを「人間以前」と見下すのは、おかしなものだと思う。人間以前は大人の方ではないだろうか。